この記事は前の記事(結構前の記事)の続きになりますので、先にそちらを読まれてから読んでいただけると何を話しているのか理解しやすいのではないかと思います。ややこしいですが、よろしくお願いします(ぺこり)。
さて、先の記事にてどうして「コピー」ではダメなのか?
3Dで精巧にできていても、「なぜ」それを人は尊ばないのか?
なぜ人込みなどの中、美術館にわざわざ行って、本物を見ようとするのだろう?
こういう「保存修復だから」ではなく、一般的な人が美術作品を見る際に思うこととして、どうして?ということを考えてみてほしく思いました。これは保存修復とは関係のない、一般的な感覚が、結局のところ最終的に「保存修復」的な考えに結び付くだろうと考えるからです。
また、当ブログ・当記事の内容は、「個々で考えてみてほしい」も目的としておりまして、「正解」を書いているわけではありません。そういう意味で当記事の内容を鵜呑みにせず、考えてほしいのです。
さてその上での問の私個人の回答としては、ことわざにもあるように「仏作って魂入れず」だから。
つまりは、いくら外観、見かけ、美観が整っていようと、オリジナルと同一のように見えても、魂や人生や精神がこもった作品を、コンピューターで精巧に3Dで作りこんでも、「本質」や「精神性」がそこにはないからです。
「魂」や「精神」って、スピか(苦笑)!精神論か!と言われそうですが、そうではなく。作品の作り込みや構築性、筆の走りや絵具の厚みなどには、当たり前ながら作者の「意図」「精神状態」「気分のノリ(体調含む)」あるいは「習慣」「経験」「くせ」など、いろんなものが含まれます。なんといいますか、全く「無」の状態で描いていることってないと思うんですね。勿論今の言い方でいう「ゾーンに入っている」みたいな、「夢中になっていて何も考えていなかった」みたいなことはあるとは思うのですが、それは「無味乾燥とした無」とは違うはずです。野球選手が「打ってやる!」という希望・欲望・目標の下、相手の球が遅く見えたとか、サッカー選手の「あそこに蹴ればシュートが決まる!」が勝ちたい!の気持ちの下、一点輝く道のように見えるみたいな、「こうしたい!」があってこそのゾーンなはずだからです。
優秀なAIが、「ここに凸凹があるから凸凹させておこう」と凸凹させるのと、「こういうことが表現したい!」という欲の下の筆さばきでできた筆跡というのは、おそらく同じ凸凹でも同じ色でも感じる何かが違うのでは?と思うのです(絵画は、少なくとも油彩画は層構造でできている上、人間の視覚の潜在能力は非常に高いために、そういう違い・違和感は何となく気づくのでは?という感じです)。これが私の回答の一つ。
また回答の二つ目として、写真を含めたコピーには、必ずそれを作った(撮った)人の「主観(エゴ)」が入り、本来のオリジナルの作者の作品とはそういう意味では異なるためです。
絵画なんかは特に視覚を主軸とした文化財なのですが、視覚というのは「モノ」だけでなくそれを照らす「光」とその光をキャッチし処置する「目」と「脳」があって初めて知覚することができるものです。どのような光をどのように作品に当てて知覚した状態を撮った(模写、コピーした)のかというところから、写真・コピーの出来は違いますし(実際美術館で図録の写真と実際の作品の色味が違うことは多々あります。撮影現場と展示現場の光が異なるので当然です)、その作品をどのような方が、どのような見方で、どのような意図を以て撮影するかによって写真やコピーの出来は違います。どんなに客観性を重視し、主観やエゴを消そうとしても、その作品を撮影、模写、コピーをする段階で「どうその作品を理解し、知覚したのか」が必ず必須になる限り、それがゼロになることはないと私は思うのです。
なぜなら、作者とは違う第三者がフィルターとして介入することになるからです。
カメラ、特にフィルムの現像や紙焼きを経験したことがある方などは特に納得してもらえる気がするのですが、単純に一眼レフカメラなど、自分でピントを合わせるカメラで撮影するとわかるのですが、同じものを撮影していても、ピントの合わせ方一つ、絞りのやり方、光量の調節など、「個性」がでます。これは「美しい写真を!」というのではなく「記録写真」であってもです。
こういうところから、「人は同じものであっても、同様には見ていない」ということがわかりますし、「一つのものを誰一人として同一の見方をしないのならば、誰が正確にコピーを作ることができようか?」ということがご理解いただけると思うのです。
さらに最後の回答としては、モノそのものが情報であり、写真やコピーではその情報は失われるだけだから、です。これは刑事ドラマとか、医療ドラマとか、推理モノとかを読んだり観たりしていると納得できるかと思うのですが、「ホンモノの証拠」があるときの情報量というのは全然違うんですよね。写真とかで証拠が残っているのはないよりマシですが、この言葉どおり「ないよりマシ」にすぎない。それは「モノ」そのものがあることが多大なる情報を得るための鍵になるからです。
これは絵画をはじめとする文化財も同じです。特に絵画なんかは視覚特化型美術なので「美観」として重要視される「画面の記録さえあれば」と思われがちですが、作品の情報はその実裏面や側面など、普段鑑賞しないところに存在していたりします。古典絵画などになるほど裏面は非常に面白い情報を持っていたりするので、美術館でも裏面も見せてくれている場所は沢山あります。
「どこに重要な情報がある」と知らない人が作品を見た時と、知っている人が見たときで、得られえる情報は全く違うのです。なお、これは修復あるあるですが、長い日数を掛けて調査をし、最大限作品の情報を引き出した上で、それでも実際修復処置に当たって初めて気づくこともゼロではありません。医療でもそうですけど、さんざん検査して、実際手術で開いてみて初めて判明することなんか茶飯事だと思います。でもそうした「処置して初めて気づく」ことや、「お腹を開いて初めてわかること」も、そもそもその知識がない人には判別できません(先日自分のCTを見せられて、「こうだから問題ない」と言われましたが、自分ではCTを読めませんでした)。同じものを知識のある人、ない人が見た時に同じように見ているわけではない、ということです。
実物以上に情報をくれる存在はなく、写真や3Dコピーが発達したとてそれが実物を超越する情報をくれることはないのです。少なくとも現代においては。
上記はあくまでも私個人が考えることで、「正しい」ことでも、学術的な話でも、専門的な話でもありません。個々の皆さんが個々で考える。これが非常に重要ですし、またそういう考えたことを交換し合う、お互いにそれを考え深めることが、より素敵な道に繋がっていくこととも思います。
また今回は「物理的」なことを主に話しましたが、実のところ「オリジナル」がなぜ大事かを考える場合、こういった「物理的な話」だけが重要なのではありません。
次回以降そういった「物理的な話」以外のことをお話していけたらと思います。本日はここまで読んで下さりありがとうございます。このシリーズの2話段階で、読む方自身にも色々考えて頂きたく、時間を本当に大分置いた上での記事ですので、1,2話を読み、ちゃんと考えてこの記事を読んでいただけたなら、心より嬉しく思います。次回に続きますので、そちらも是非。ではでは、また~。
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