修復家がオリジナルを大事にする理由⑥

修復を学ぶ

「オリジナル」関係の話、まだ続いているにも関わらず間が空いてしまいました。興味深く読んで下さる方がいるとしたら、申し訳ないです。読んで下さりありがとうございます。

この「オリジナル」の話は、結構分かりやすいようでわかりにくい話だと私は思っていまして。正直私自身、日本の大学院で学生をしていた際は、頭では理解したつもりで、実際のところ本当にわかっているのか自問自答しているような状態でした。

これは今となってはまぁしょうがないことだなぁと思うのですが、例えば医療とかでもそうかと思うのですけど、100人の専門医がいて、全くにその100人が同一の意見ということはおそらくないだろうということと同じだと、思うからです。

また医療と同じに、保存修復においても「触る(処置する)限りはリスクが必ず付きまとう」のであり、処置とそれに対するリスクをどう評価するかが人によって異なることから、オリジナルに対する侵害度に対する考えも異なると考えるわけです。

以下は私がベルギーの「映画」の授業で「考えろ」と言われたことで、今も覚えていることなのですが、結構保存修復の「オリジナル」と一致する話だと思われるので、読んで下さる方も考えてみてほしいのですが…。

皆さんは海外映画など、「自分が学んだことのない言語」主体作品を見たことがありますか?その際に、言葉の部分はどう補っているでしょうか?字幕ですか?それとも吹き替えでしょうか?

字幕であれ、吹き替えであれ、オリジナルではない人の声(言葉遣い)での会話、あるいは字幕がオリジナルの画像の上にある。これは、オリジナルの侵害であり、制作者の意図100%ではない、というのがベルギーの教授(映画専門であり、保存修復関係ではない)のご意見の根幹でした(「だからこれらをやめろ!」という話ではない)。

その時見せられていたのは、「ザ・ステアケース」(今は日本語訳で見れそうですが、私が留学中および日本に帰国後すぐには日本では見れませんでした)。殺人事件の容疑者とその容疑者家族に密着したドキュメンタリーです。フィクションではなく、本当の殺人事件。

出てくる人は英語圏の人なので英語で話し、制作はフランスなのでフランス語字幕がつくという状態で、その映画を見て考察をしなければならないという苦行の授業でした(そもそもにその映画に限らず、「映画の授業」はあらゆる映画を見て、そうでしたが…)。

で、なぜ教授のその問い(音声吹き替えにせよ、字幕にせよ、オリジナルへの侵害だ)にその「ザ・ステアケース」が使われたのだろうと逆に考えたのですが、字幕に関しては一貫して「制作者の求める美観に対する邪魔になる」に加えて「どうしてもある一定の時間目線が字幕に留まり、作品映像を鑑賞することが不可能になる」がそうだろうと推察されます。

これに対し音声に関しては「容疑者の考えや気持ちやこまかな何かが声に出る」が、失われるからだろうなぁと思った次第(また吹き替え担当の上手い下手によって、作品の質が一気に落ちたり、最悪「途中脱落」の危険性すらある)。声や話し方には思いの他、特に目をつぶって音声に集中すると嘘っぽいとかそうじゃないとか、そういうのもわかるときにはわかる気がします(ただこの映画に関しては、いわゆる容疑者の方が息をするように自分の都合のよいことを言うと言いますか…。そういうタイプの方なので、嘘をつくときに変化があるタイプではないんですけど)。

そこまで繊細な何かを求めずとも、私はもともと音声吹き替えが苦手なので字幕派ではあるのですが、これ、特に日本の有名番組とかを別言語訳で吹き替えされたものなんかを見ると、本当に違和感があるので、オリジナルの音声を知っているほどに「音声吹き替え=オリジナルの侵害」というのは、結構うなずけるものがあります。

なんていうんでしょ。アニメだとありがちですけど、こういうキャラにはこういう声っていうのが、国によって違うんですかね。海外で見る日本アニメにおいては結構思いがけない声がアテレコされていることがあります。

また仏語⇔英語間というのは、ボキャブラリーとして60%程度同等とされているので、翻訳されてもその乖離は甚大ではなのでは…と思うのですが、日本語との乖離は大きいですよね。洋画なんかを音声オリジナルで、字幕を見ていると、「え?そう訳すの?」ということもままあり(時間的な問題とかもあるとは思います)。これはロシア語翻訳の故米原万里さんの本を読まれると留学などをしたことがない方とかでもわかるのでは、なのですが、他言語を「自分がわかる」ではなく、音声なり文字なりに翻訳すると正しくやっても、意訳でも陳腐といいますか…だったりして。なので、そもそもに「他言語に置き換える」ことが、オリジナルに対してわずかであろうとも侵害しているのではなかろうか…と思える部分もあるわけです。ちなみにこの「ザ・ステアケース」の日本語版を見たかたは、ちょこちょこ和訳が間違っていると書いていましたね…(汗)。

でも。

そもそもの「映画」の肝ってなんだろう?と。

多分、ひとりでも多くの方に、制作側の「意図」がどうやったら伝わるだろうってことなのかなぁと。

そもそもに映画でも本でも漫画でも、制作者が「こう見てほしい!こう理解してほしい!」のそのまま、100%観た人間が受け止めるわけではない。見た人間の経験値や、性格や、知識が画一ではないからこそ、「えっ、あれを観て、そう捉えるの?」ということもあるわけで。

そう捉えると、普段から作品のオリジナルというのはその「損害」と隣り合わせ。だからこそそういう作者の意図をきちんと受け止められないこちらの知識や経験不足なんかも問題だ!と言われれば、スイマセン…でしかなく。

でも、本当に100人が100人、作者の制作意図を受け止められるかっていうとそうではないのは現実の上で、それでも一人でも多くの方に見てもらって、制作意図や作品の根幹が伝わることが大事なのでは、と。

すなわち。制作者が「オリジナル」の状態でだけしか許さない!となれば、その言語がわかる方あるいは耳が聞こえる方のみしか楽しめないエンタメに過ぎない。けれど、「一人でも多くの方に伝えたい」が前提であれば、「そもそも100%は伝わらない」の現実の下、音声や美観の損害に目をつぶって、他言語化をしてでも「楽しんでくれる方の分母を増やす」ことって大事なのではないかと思うわけです。

でもだからといって制作上の意図に従わない翻訳、音声化、美観を損ねる字幕を実施していいい、というわけではなく。あくまでもオリジナルを尊重する、ということが前提となります。

オリジナルの尊重は大事な上で、そこに「オリジナルのため(オリジナルに対して利益はある)」とはいえ手を掛けるということは、必ず「損害」が伴うわけで、その「尊重」と「損害」とのバランスが大事ってことです。映画の場合は「必ず製作者の意図を曲げずに、視聴者に伝わること」が前提だと思うのです。

その上で最も恐ろしい損害というのは、作者の意図に沿おうとしないことなのではないかなと、考えたりします。

日本でも昨今ありましたね、作者の意図無視の事件。作者が最悪を選んでしまうことにより、作品のオリジナルを軽視することの罪深さを思い知らされる事件でした。それくらい、「オリジナル」というのは作者にとっての「魂」と同等なわけで、そこを作者の許可なしに改変することは傲慢でしかない。

こうお話しすると、こういうことを全く考えずに作品を処置しようとする人が、いかに「傲慢か」ということがお分かりいただけるでしょうか。他人の魂に、簡単に触れようとする「気軽さ」は、「勇猛」だったり「果敢」だったり「有能」だったりするからではなく、単なる「無知」あるいは「傲慢」ゆえでしかない。そこには本来の作品、作者に対する「愛」はない。

さてさて調べてみると、2024年だかに「ザ・ステアケース」はネットフリックスかなんかで、見られるようです。それこそ私が見たオリジナルなのか、そのオリジナルを元としたフィクションなのかは不明ですが。

ちなみに私が見た「ザ・ステアケース」は本当に殺人事件の容疑者の話ですので、殺人現場の映像、遺体の状況もそのままオリジナルがでてきますし、血が苦手な方は見ないほうが賢明な作品です。一度しか観ていない私が、未だ脳裡に浮かぶほどの映像なので、普段ホラーを見ない方は特に避けたほうがよろしいかと。作り物ではないですから。

というわけで本日はここまで。当記事を最後まで読んで下さり、ありがとうございます。ではではまた~。

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