【雑記】そもそもどうして文化財には保存修復処置が必要なのでしょうか(2回目/全3回)

雑記

先の記事にて、20年ほど前に、ブログ主が絵画保存修復関係者であるということを知っている知人女性(非家族、非親戚)から、「所詮【もの】は傷んで無くなるのだから、そんなに躍起になって処置する必要性がどこにあるの?」ということを発言されたことを思い出し、それについて個人的に考えてみております。本日はその続きです。

先の記事では、「残す努力をしなければ、文化財は残らないから」というのを回答の一つとして書いているのですが、これはきっと上記冒頭の女性の発言に呼応するものではないよね(汗)とも記述しました。

ですので、違う視点での「なぜ文化財には保存修復処置が必要なのか」という回答をするとすれば、確かに写真やイメージ、最近だと3Dプリンターなどにて作品の見た目を残すことはできるだろうけれど、「作品そのもの」が残っていること以上の「情報」はないから、ということがあくまでも現状のブログ主による個人的な回答になるかと思います(学術的なとか、業界的なという回答とは違う、という意味です)。

例えば広島にある平和記念資料館では、館外、特に海外などでの資料展示の希望を叶えるために、「オリジナルの資料」ではなく、「コピー(非常にオリジナルと似ている)」を制作しているという話を館の方から伺った記憶があります(確か単純な3Dプリントとかではなかったんじゃなかったかな?記憶が薄れていて申し訳ないですが。汗)。なぜなら「オリジナル」の強度が移送に耐久できるか不安があるためです。

こういう例を出すと、尚、「本体(オリジナル)」を残す必要性に関して疑問がでることと思います。「コピー」を展示するなら、「オリジナル」の意味は?と。もっと端的に言えば、それこそ「オリジナルなんてなくてもいいじゃん」と、そういう気持ちにシフトされる方もいるかとちょっと心配しつつ。

しかし、ここで問題にすべきは、「なぜコピーを作ったのか」という「コピー」の目的です。これは「オリジナル」に負担をかけないため、すなわち、「オリジナルを可及的最大限、半永久的に残す」ことが目的であると同時に、「被災資料」によって「何を伝えたいのか」というこの目的に呼応するために制作されたと考えます。

広島の平和記念資料館の展示の仕方自体、ブログ主が大学生の頃とは異なるものになったそうで。それは来館者がただ「怖かったね」という気持ちで終わらないようにといったようなベースによるものだと何かで見たような気がします。

同じ資料を展示していても、その展示の仕方一つで受け手の感情・学習するものも変わると同時に、その資料そのものの価値(役割など)も変わる。でも、それは資料の側にいる人間次第(あるいは資料によって何かを受け取る側次第)であって、その資料自体がなんら変わるわけではありません。

文化財や物理的資料のようなものは、人間同様に複雑な多面体で、それを完全に理解した、ということ自体、正直不可能だとブログ主は思っています。このブログ内で、最大限作品を理解することが大事だとこれだけ言っているブログ主ではありますが、それだけ何かや誰かを理解することって難しいと思っています。だって、人間をやっている自分自身すら、己自身を完全理解なんてできてませんもん。それを他者が勝手に「お前のことは、なんでも全て知っている」っていうの、おこがましいと思うんですよね。

あくまでも人間という生き物は、見たいものしか見ない、見たくないものは見ない、自分の理解の範疇しか取り扱えないものなのですから、自分が見ているものが全てではないことが多いと思うんですよ(しらない別の側面がある、という意味で)。

例えばですが、世の中には写真があるのだから、作品そのものが残らなくてもいい、という意見に関しては、どうでしょうか?このセリフこそ、実は冒頭の女性が言ったセリフの一片だったりもするのですが(汗)。

これに対してブログ主が思うこととしては、そもそも写真は誰が撮っているものでしょう?という疑問です。そしてその解答としては、人間であるというのが、それとなるでしょう。写真というのは人間の視覚に頼って撮影されます。その視覚というのは、光に左右されるものですので、撮影された写真というのは、撮影時に利用された光に依存します。つまり、「撮影者の見たように」は写せますが、「作品(文化財)そのもの」であるというわけではありません。なぜなら、光が変われば、作品の見え方が変わるからです。光がなければ人は物を視認できない。かといって光が、あるいは光の当たり方が少しでも異なれば、物は見え方を変えてしまう。非常に第三者的に、客観的に撮影するというのはそれなりに難しいものです。もっと端的に言えば、オリジナルをなんらかの別の形で残す場合、そこには必ず作者ではない誰かの視点、意志、目的、「伝えたいもの」というようなものが介在し、完全な客観としてのコピーというのは残せないのではないか?という疑問がある、ということです。そのそもそもが、「コピーを作る」上で、「視る」ということが必要不可欠で、そこには「人」が絶対的に関わるためです。

加えていえば、ノーマル写真というのは、「色彩」には特化しますが印画された画像、印刷された画像、ネット上の画像が、作品そのものの色彩には残念ながらあまりなり得ません。というのは、カメラ(レンズ)の癖があったり、印刷機の癖があったり、あるいはPCなどの画像を表す端末の癖などがあるからです。私の知る画家さんなどは、美術館を鑑賞する際、最初に図録を購入して、図録の写真と本物の作品の色味がどう違うかを図録にメモしているくらいです。

勿論美術館などの図録の撮影や印刷はその道のプロの方がしているはずです(そして校正する中で、写真の色調調整などもしているはずです)。しかし、「オリジナル」と同じに、というのはなかなか難しいのです。

加えて、これはそもそも論ではあるのですが、特に油絵においてはその技法において、多層構造で構成された色彩というものがあるからとも考えます。実際文字での説明は難しいのですが、図録上(印刷上)、ある一色のぺたーっとした色彩としか表現できないものが、実はオリジナルを見るとそうではないことはよくよくあります。

さらに言えば、油絵に限らないですが、絵画には筆跡などのごくわずかな凹凸などもあり、そういうものも含めての「美観」だったりするのですが、実際美術館の図録などのようなノーマル写真の場合、こういった物理的な痕跡は全くに失われてしまいます。ですので本来オリジナルを鑑賞する際に無意識に味わっている部分が、写真などでは失われてしまうんですね…。

…。

そうすると、作品の凹凸も適正で、色彩もきちんとしたコピーができればいいのか、という話になるのかなぁと思いますね。

ということで、その続きをと思いますが、すでに長くなっておりますので、本日はここまで(汗)。

最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

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