文化財保存修復の学びの中に、「倫理」というものがあります。おそらくいろんな職業において職業における専門の「倫理」というものが存在すると思います。その一つです。
そもそもの誤解としてなのですが、「文化財保存修復」という分野の歴史は浅いのです。ですので、そういう専門として成り立つまでは、それこそ画家さんや彫刻家という「制作者」が実施していたり、あるいは商業目的で手を入れるというようなことがなされていました(特に西洋世界の話となります)。
ものすごく正直に言えば、いまだ「絵画の直しくらいできます!」という製作者、画材屋、学芸員が手を入れてしまっている例がありますので(勿論こういう方たちは文化財保存修復に関して専門的に学んだことも経験もない)、いまだこういう粗野な状態が日本ですらゼロではないとは言えます(ブログ主自身が、上記のようなことをのたまっている日本人たちを知っているためです。どうか大事な絵画は専門家にお任せください…)。
こういう歴史的な流れでいいますと文化財保存修復という専門の成立と並列な感じで少しずつ「倫理」というものが考えられていくのですが、これが結構ややこしい話だったりします。修復倫理の根幹というのはゆるぎないものであると思うのですが、それでもいまだ西欧世界においては「修復倫理」について色々議論を試みているようです。なお、「議論」というのは、「よりよい方向性」を見出すための道のりですので、決して暗く、マイナスな印象に捉えないようお願いしたく思います。
さて。こういう修復倫理を「議論」するというような話をすると、「いや、正しいことは1つでしょ」と考える方もいます。そうであればいいのですが、例えば戦争などを考えるといいのですが、A国とB国が争っている場合、A国にはA国の、B国にはB国の正義があるわけで、そういう意味では「正義は1つ」ではありません。
あるいは、有名な思考実験で「トロッコ問題」というものがあります。結構この思考実験は有名ですのでご存じの方も多いと思うのですが、どういう話かと言いますと、簡単に言えば「ある人を助けるために、他者の犠牲は許されるか」ということです。
もっと詳細に言えば、「線路を走るトロッコが制御不能になった。このままトロッコが直進すればその先にいる5人の人間が100%トロッコにひかれて死んでしまう。しかし現在トロッコと5人の人間の中間点にいる【あなた】が分岐のすぐ側におり、その分岐でトロッコの走行方向を変えれば5人は助かります。とはいえ、もし分岐でトロッコの走行方向を変えた場合、そこには別の人間が1人作業をしているのですが、その人を確実にひき殺すことになります。【あなた】は分岐でトロッコの分岐を作動させ、【5人の代わりに1人を殺しますか】あるいはトロッコの分岐に触れず【5人を見殺しにしますか】」という話です。
これには回答は存在せず、例えばトロッコの行く先の人が犯罪者なのか、嫌いな人か、家族か、好きな人か、老人か、若者か…といった条件によって回答は変わる、という人もいます。
単純に考えれば、被害者が少なければ少ないほどよい、と思いそうなもの。でも、その「被害者を少なくする」という結果を、【自分】が【意図】して【行動】するとなると、その「一人の被害」の責任が一気に背中に乗るんですよね。逆にもし5人を見殺しにした場合、【自分】に責任はかかってくるのでしょうか?「自分はただ分岐のところにいただけだ!そもそもトロッコが制御不能になったのは【自分】のせいではない」と逃げることができるのかもしれません…。…実際それで公的に「罪」には問われずとも、ずっと自分の中では「見殺しにした」という罪悪感は残るでしょうが。
このようなトロッコ問題と保存修復の両者になんら関係なんかないじゃないですか、と言われればそうかもしれません。でも、実際の修復現場においてこの「トロッコ問題」と同じような問題はでてきます。
例えばこれは西洋絵画、特に「オリジナルのワニス(保護)層」を持つ油絵作品において議論が発生する内容になるのですが。そもそもに修復倫理において、我々文化財保存修復関係者は「オリジナルを壊すような真似をすることはできません」。だからこそ、我々保存修復家は前もって適正に調査を実施することにより、「ここまでがオリジナルである」と定義し、原則としてはその部分においては「不可侵」の立場をとる必要があります。
しかしここで問題とする「ワニス(保護)層」というのは、経年により黄変(変色)することが前提です。よく美術館博物館の油絵作品で「この作品、全体的に黄色い作品だなぁ」というものに出会ったことがある方もいると思いますが、それはもしかしたら単純に保護層が黄色く変色してしまい、あたかも黄色いフィルターを通して作品を見ているような状態になっていたのかもしれません。
さてここから考えるべきこととして「オリジナル」とはどういうことを指すのか、というものがあります。1つは勿論「ワニス(保護)層」が画家の手によるもの、あるいは画家の意図によって塗布されたものである場合、それを「オリジナル」として「不可侵」とするということ。これが普通一般的な考えです。
でも、こうも考えることができます。「そもそもに、画家が意図した作品の色味はどのようなものを指すのか」と。「黄色味の強い、黄色いフィルターを通したような見た目の絵が、画家が望んだオリジナルの画面であるわけがない」というのも「作品の美観」という意味合いでは「オリジナル」という考えになるのかもしれません。
そうするとこういう考えが浮かぶでしょう、前者を大事に考えれば「ワニスを残すことがオリジナルの技法材料を残すこととなるわけだから、画面が黄色いままだろうとも(美観を犠牲にしても)、ワニスを残す」という考え。そして後者を大事に考えれば「画家の意図する作品の美観を取り戻すことがオリジナルであるのだから、オリジナルだろうとワニス(明らかにオリジナルである部分)を除去する」という考えを優先することでしょう。
実際に修復する身の上の方の場合、実は別の道筋もあることはご存じでしょうが、その道筋も、決して上記の2つの案の両方を完璧に満たすものではありません。
このように考えると、文化財保存修復という職業は非常にジレンマの中にある専門で、作品にとっての最良を選択するよう頑張るのですが、どう頑張っても悩ましく、ストレスの多いお仕事なんですよね…(勿論いつも、私を含めどの専門家の方でも、お仕事の結果に関し、顧客様にご満足いただいています。でもジレンマしながら…、という意味合いで)。いえ、この仕事が特別に、という意味合いではなく、おそらくいかなるお仕事でも、どこかの部分で矛盾を抱えていて、ストレスを感じているだろうことは前提ですが。
ただその選択の重さに関しては、日本で学生をしているうちは「先生の指示に従って」やっていればいいのですが、ひとたび「お仕事」となり「お金を頂く身」となれば、責任は自分の肩に乗ります(ちなみにヨーロッパだと学生の段階で「責任を持つ」という形になりますので、学生の身でもお気楽ではいられません。苦笑)。トロッコ問題が、一つひとつの作品を目の前にしたときに起こると考えていただけると、「手の仕事」ではなく、「重い選択を強いられる仕事」であると想像できるのではないかなあと思ったりします。
ただ「現代」の「我々(あるいは私個人)」に「できること」もあれば「できないこと」もある反面、もしかしたら「今」「できない」ことが「未来」には「できる」かもしれないことも考えて。「今」「できる」ことが「完璧」ではなくとも「最善」であることを目指すことが「未来」に「作品を救う」ことに繋げられるなら、それが「今やるべきこと」だったりもするので。
そういう崇高な考えでできる部分というのは限られていて、実際は当然ながら経済と「修復したら完璧な美観に蘇る」という誤解がある中でのことですので、なかなかややこしいのですけどね…(苦笑)。
答えのない話、あらゆる事例に当てはめられる話ではないからこそ、それでも「最善」を目指して考え続けるということは、大事だよねと思ったりするのです。
というわけで本日はここまで。最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
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