文化財保存修復の倫理について考える②:テセウスの船に踏まえて1/3

修復を学ぶ

先の記事にて、有名な思考実験「トロッコ問題」を題材に、文化財保存修復、特に油絵関係の倫理について考えてみました。

本日は同じように有名な思考実験「テセウスの船」を元に同じく文化財保存修復に関わる倫理について考えたく思います。

ただし、あくまでも「思考実験」と言われるだけありまして、正解のないお話ですので、数学的な「正解」を求めずに読んでいただけたら幸いです。

ところでまず思考実験「テセウスの船」とはどんなお話かご存じでしょうか。かつて漫画やそれに基づくドラマがあったようですので、ご存知の方も多いかと推察します。

非常にかいつまんで要点を言ってしまえば「とある物体を構成する部品を、ひとつ残らず新しい部品に入れ替えた場合、果たしてそれは同じ物体なのか、別の物体なのか?」という問いです。

そもそもに「テセウスの船」とは、ギリシャ神話に出てくる「テセウス」が、クレタ島に住むとされる牛頭人身の怪物「ミノタウロス」を討伐するために乗り込んだ船とされます。

その有名な船を記念として後世に遺したいが、なんせ昔の船。経年ともに部分部分に修理が必要となり、オリジナルの部品ではどうにもならず、新しい部品が代替され、気がつけば、ひとつもオリジナルの部分を持たない物体となっていた。これは「テセウスの船」と言えるだろうか?というのが思考実験「テセウスの船」の詳細です。

さらに、もし上記のようにひとつひとつオリジナルの部品を新しい部品に代えていくと同時に、実はオリジナルの部品を廃棄せず、本来と同じに組み上げた、全く同じ船(ただし非常にぼろぼろ)が上記の「非オリジナルの素材のテセウスの船」と同時に存在した場合、「どちら」が「テセウスの船」と言えるだろうか、という問いも場合によってはついてきます。

なお、誤解を与えないように、ではありますが、原則として我々文化財保存修復関係者は「オリジナル」に対して損害を与えることはできない、というものがあります。

ですので、処置の結果「テセウスの船」が二つできました、ということは文化財保存修復の処置では発生はしません(苦笑)。

別な例でいうと、これもかつて坂田靖子氏の漫画だったり、最近(っていうほど最近ではないですが)だとアニメの「攻殻機動隊」や「サイコパス」の中など、普遍的にでてくる問ではありますが、「どれ程身体を機械化したら、ヒトらしさが失われるというのか」というようなものです。こう考えると、非常に回答が困難になりますよね。確か「サイコパス」のセリフの中にもあったように思うのですが、「人を人たらしめるのは一体何なのか」というセリフがあります。あくまでも個人的に思うことですが、「テセウスの船」の問の根底にあるのも、こういうことだと思うのです。

さて、こういったものを文化財保存修復、特に絵画の保存修復に落とし込むと、例えば具体的にどういったことにかかってくるかといいますと、文化財保存修復の原則みたいなところで考えれば、「美術品(文化財とかですね)は、完全な状態でなくとも美術品のままである」というところでしょうね。

つまり具体的な例で考えますと、例えば「サモトラケのニケ」や「ミロのヴィーナス」のように、「部分的に欠損」した彫刻がこの世にはありますが、「欠損」したからと、その作品は「どうでもいいもの」になったわけではなく、「欠損しようとも、大事な作品に変わりない」ということです。当たり前といえば当たり前ですね(^^;)。

でも、この原則があるからこそ、我々保存修復家は「修復処置」を施すことができます。

例えば絵画の保存修復の場合、よくあるのが、絵画層が部分的に剥離して無くなってしまい、描かれたイメージが部分的に失われて鑑賞しにくくなってしまったため、「充填整形・補彩」をお願いされる、ということはよくあります。これによって、「失われた鑑賞性の回復」を図るのがその場合の仕事の目的となりますが、そもそもに「欠損した段階で美術品(作品、文化財)ではない」が原則であれば、こういった保存修復処置をすることは無意味になってしまいます。だって、「損傷した作品=美術品などの価値あるものではない」であれば、そもそもに「修復してまで回復してほしい」と願われることはないですから「作品ではない処置に対して、回復するべき鑑賞性が存在しなくなる」ためです。

この段階で結構ややこしい話だと思うのですが。逆説的に考えてみまして、例えば現在の「ミロのヴィーナス」からほんの小さな、1センチ四方の破片が落ちてしまったとします。でも、「ミロのヴィーナス」から落ちた破片ですので、それは「ミロのヴィーナス」ですよね?「欠損した美術品も美術品」という限り、逆に大多数の部分を失った美術品もまた美術品であることは、正しいはずです。

しかし上記をご理解いただいた上で、もし仮に、「この1センチ四方程度のミロのヴィーナスを、修復する前に各国の巡回展に貸し出そう」ということになったとして(大きい本体のほうではなく、ということです)、その「1センチ四方の破片」が「ミロのヴィーナス」として展示された場合、誰が興奮しながらそれを鑑賞するだろうか、という疑問がでてきます。その破片は「ミロのヴィーナス(の破片)」で間違いないのに、誰しもが「は?これがミロのヴィーナス?」と不満を持つように思うのです(汗)。明確に言ってしまえば「破片の状態では」あるいは「その破片が小さいほどに」、「たとえそれが作品の一部であり、作品のオリジナルであろうとも、作品と認識されにくい」ということが出てきます。

そうすると、本体がどれだけ残っていたら「作品」と認識されるのだろうとも思いますね。これは回答がない問なので、色々考えてみると面白いですが。あるいは色々想定してみると、こういう「問」自体が色々でてくると思います。場合によってはその「問」に対して「定説の答え」というのはきっとないとは思うのですが。

それはそれだけ作品や作品の損傷状態、作品の本質のようなものが個々で違うからで、一概にひな形の中に押し込められるものではないからでしょうね。

だらこそですが、個々の作品一つ一つに向き合って考えることが大事になりますし、同時に「原則」のような、「概して全体的に」というものを成り立たせる難しさというのもあると思います。そういう意味で現在修復関係者が知る修復倫理を成り立たせた歴史や人々に感謝する次第です。

というわけでこのテーマは次回に続くため、本日はここまで。最後まで読んで下さりありがとうございます。

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