【雑記】大阪府所蔵、総額2億円を超える美術品が地下駐車場保管

雑記

もともと大阪府咲洲庁舎事務室保管がなされていた、大阪府所蔵総額2億円(105点)の美術品が地下駐車場保管されていることが明らかになったようです(参照 youtube:2億円超の美術品ずさん“保管” 芸術家も憤り「粗大ゴミ扱い」(2023年7月25日) – YouTube ニュースですので、もしかしたら消されてしまっている可能性もあります。ブログ主視聴は2023年7月29日。ちなみに外部リンクですあること、音がでますのでご注意ください)。

文化財保存修復関係者としますと、「ああ~…」と残念と思うと同時に、所蔵の方からすると、これらの作品への認識はこういう程度なんだなと遠い目をする次第。

ただね。これ、多分大阪府だけの話じゃないと思います。どこの都道府県でもありうることで、驚くべき話でもないと思っています。

だって、所蔵者(所蔵場所の責任者)がそもそもそれらの作品を愛しているわけでも、大事にしているわけでもないですから。

担当者の方が次々変わる中で、均質の保管がされるわけではないのは私もこの業界にいて、同じ場所で「担当が変わるだけで!」というのも経験しているのでよくよくわかります(youtubeにでてくる担当者さんを責めているわけではなく、どこかの段階で美術品の価値の喪失がなされたのではないかとか色々考えます)。ただ、勿論所蔵先の担当者のみに責任があるわけでもないので(決定権などはないですから)、担当者を責めてもどうにもなりません。

ただね、美術って曖昧なもので、同じものを同じに愛してもらえるわけでも大事にしてもらえるわけでもありません。例えばガンプラ好きの夫が子供のころから中年までこつこつと集めてきたコレクションを、妻があっという間に捨てた!みたいなそんな話を聞いたようなことがあります(いや、怖い話だなと思います)。妻からするとガンプラの価値がわからない。むしろ邪魔であると。でも、それを大事にしてきた人からすると人生否定されるほどのショックで。

ガンプラはあくまでも例でしかないですが、マニアの間では高額でも、マニアじゃない人からすると無価値っていうものには、あくまでも一般論として(ブログ主の意見としてではないですよ~)美術作品もある種含まれると思うんですね。

かつて違う記事でも書いた気がするんですが、結局のところ今も未来も作品は新たに出てくる上で、それらを全部保存していけば、ものすごい極論として最終的に人類が生きる場所がおびやかされたり、あるいはいろんなエネルギーや労力が作品保存のために使われて、人類よりもよほど作品が大事にされるかもしれない。あるいは、そんな場所も労力もお金もないからこそ、限られた美術館博物館で納めきるために、もしかしたら将来的に美術品の取捨選択がなされるかもしれない。

その早期実施がこの大阪府の例かもしれません。お金も場所も労力もなければ、特に愛されたわけでも大切にされたものでもない美術品の末路というのはこういうものなのかもしれません。

いえ、誤解を持たないでほしいのですが、ブログ主も文化財保存修復関係者なのでこういうの、嫌ですし、やめてほしいですよ。でも、「人の認識」が体現されている現実の例なんですよね。

これ、制作する方に対する冒とくのようなセリフだ…とは思うのですが、日本の美術シーンの在り方として、結局のところ「価値があるのは、欧米からお借りする有名作品」であって、日本の、日本人による、日本のための作品への価値を大きく感じている人というのはそう多くはないと思うのです。大阪府のこの関係者だけでなく、日本人の美術館にいく人々にとってもそうだと思うんですよ。

日本の美術館にいくつも日本のアーティスト、画家さん、彫刻家さんの作品ありますが、それらの常設展をわざわざお金を払って見に行く人がどれだけいるか、っていう話です。企画展のついでに、無料になっている常設展を見ることがあっても、常設展だけをお金払って、という方は結構稀有だと思うんですよ。

勿論日本の古典美術(日本画とか刀とか仏教彫刻とか)は観覧する人もいるでしょうし、古典美術・日本特有の美術は外国からの旅行者などが美術館にきて観に来ることもあるでしょう。でも近現代作品なんかはどうでしょうか?

美術館の企画展などを見るとわかりますが、集客があるのは「有名画家」の名があるか、あるいは「エジプト」などの人気時代についての企画。失礼千万を承知でいえば、作品の価値って一般的にはネームヴァリューなのか…とついつい考えてしまいます。そういうものではないのだけど…、「有名ってことは価値が高いのかな」っていう目で見ちゃうのかな。

かつて大学教員をしていたころ、入学試験として「地域にある文化財に1点(興味のあるもの)を選択し、それについて小論文を書け」というのをお題としたときに、「西洋絵画・油絵」を選択した高校生全員(一部ではなく、全員)が、「有名なヨーロッパ人画家が描いた作品」を題材にして文章を書いていました。それらの学生の住むどの県、どの地域にも有名な日本人画家がいて、むしろそれらの画家の作品が山と揃っているにも関わらず、むしろヨーロッパの美術館に鎮座する作品をわざわざ選択(本物を見たことがない)して文章を書くので、当時あきれもしましたし、情けなくもなりました。

でも、これは日本人の美術への意識を結構明確かつ端的に表していると思うんですよ。日本人の画家、作家、アーティストを知る人がニッチというか、マニアというか、なんですよね。美術系大学にいても、高橋由一の認知率、100%どころか50%いくか、いかないかですからね。

美術品を買う人が必ずしも美術品を愛しているわけでもない、っていうのもあります。

仕事柄、個人のコレクターさんなどに会うことがありますが、ある傾向のある画家さんの作品を収集されていたその人がいうに、「こういう作品は、後に価値が出るから」とのたまったかたがいました。

その方からは修復の調査のために呼ばれたのですが、おそらく修復費用が購入費用よりも高価だったんでしょうね。「これは壊れてなくなる運命の作品だから」とも言われました。

こういう方は何を言っても聞き入れませんし、そもそも我々から何かを強制することはできませんので、その方とはそれ以降やりとりはありません。でも、作品としての愛ではなく、「株」みたいな感覚で購入する人もいるんだなと思った次第です。愛あって手元に置きたがってるんじゃないんだなって。

また別のお金持ちの美術コレクターさんが言っていたことですが、よいコレクターになるには「自分の自腹を切って購入する」を繰り返ししないとダメなのだそう。「自分の身銭を切って、痛い目を見ない」と、自分は本当は何がほしいのかを理解し、本当に欲しいものなんて買えないって。

大阪府に限らずなんですが、作品購入時に「身銭を切る」感覚では買っていないと思うんですよ。

おそらく今回明らかになった駐車場保管の作品なんかは、まだ世の中が景気のよい時代に購入されたりしたものなんでしょうね。個人の財布が痛い目を見るわけもなく、かといって組織の金庫として痛い目を見るわけでもなく。だから「本当に欲しいわけでもないもの」が集まってくる。欲しいものでも、好きなものでもないもの、大事にするわけがないじゃない。

その上で美術品は購入したら終わりと思っているのか、保管や手入れ、管理などを何も考えず、「その作品が好き、大事、是非!」という気持ちも何もなく、購入した上で、保管のための労力やお金、場所に困ると結局こうなる。

さらにお気に入りの服でもそうですが、汚れたり、壊れたりなんらかの不都合がでてくると、大好きな服から、2番手、3番手に落ちていく。さらに古くなると見向きもされなくなる。手入れというのは、こういう「愛情のキープ」のためにも必要なんですけど。駐車場にあってもなんら気に掛けられていない段階で、「愛情」なんてゼロですよね(苦笑)。

愛情もない、作品を安全に保存できる力量もないとなると、正直手放されるのが一番いいのでは?と思うと同時に、動画を見ながら、「絵画」ではなく立体作品的なものが多いのか、別の誰かが簡単に「もらいます、買います」とはなりにくそうだなとため息をついついついてしまう感じです。

ブログ主としては、こういう事態ってあきれ半分といいますか、悲しいを通り過ぎるくらい、頭を抱えたいのですが…。最初に書きましたとおり、大阪府だけの話でもないと思っていますし、正直こういう高額で購入した作品が大事に扱われていないだなんて、どこにでもある話だと思っています(その理由的に上記のように書いています)。

でも、勿論それをよしとは思っておらず。かといって今一瞬で世界の意識が変わるような術もなく。

ただこういう市井の人の気持ちなんかが変わるだけで、本当に美術品などの保存の在り方みたいなものは変わるはずで、保存の仕方が変われば未来に引き継げたり、修復の手入れ度合も変わってお金もかからなかったり、いろんなよいスパイラルに入るはずではあると思っています。

だからこそ修復家だけが頑張っていても、今の世の中作品を守ることなんてできなくて、市井の方々の意識がほんのわずかでも変わってくれたら…とこういうブログを書いているのですが。

勿論こんなブログごときで何かが一瞬で大きく変わることはないのですが…、やりきれない気持ちにはなりますね…。悲しい。

本日はここまでです。最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

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