本当に勉強したいなら、試験のある大学がいいのでは…と個人的には思う

雑記

ブログ主が大学で教員をしていたころ、本当に学生の質…とでもいうのでしょうか、それが自分の学生の頃(四年生大学および大学院)や、留学していたころ(海外の大学の様子)と全く違い非常に悩みました。

それが最近ネットのある記事を読んで、愕然としつつも納得した次第。

それは何かというと、現在の日本の大学は「必ずしも勉強のために来る場所じゃない」なんだなぁと納得したわけです(ちなみに読んだニュースはこちら:“Fラン大学”と揶揄されるけれど…掛け算割り算ができぬまま高校を卒業する学生が少なからず存在している怖い事実 (msn.com) 外部リンクですので、自己責任でご覧ください)。

どうしてこう納得したかというと、ブログ主が大学入試試験を受けたのは90年代半ば。そのころの四年制大学の進学率は17%、短大を含めて25%だったんですって(ちなみに出身高校は一応進学校だったので、100%進学でしたが)。

なお、現在は大学だけで50%なのかな(短大含めてなのかな?)。

ブログ主世代の場合、倍率自体も高かったので浪人もしながら、専門的な勉強がしたくて、必死で勉強して入学していたものが、いまや大学によっては総合型選抜入試(旧AO入試)のようにほぼ無試験でも入学できるようになりました(面接はあるけど)。

こういう進学率のパーセンテージによって、大学を取り巻く環境や教育内容、学生の受け入れの在り方、管理経営に関わるスタッフが変わる…と社会学者のマーチン・トロウが「トロウ・モデル」という理論モデルを提唱しているらしく。まさにブログ主世代のように17%程度が大学に行っていた時代と50%もの人間が大学に通う現代では状況が違うのだなぁと納得した次第。

ただこれが世界的にも同じことが起こるのかは正直なぞ。っていうのは、すごく正直言って、今の日本って少子化で、大学入学年齢の子供の数ってブログ主の時代とは全然違うのね。

そのくせ日本の大学の数は多くて。そうすると学生の取り合いをしているのだわ。大学経営のために。定員切っちゃうと、大学やってけないからね。だから青田買い的にセンター試験とかの前に総合型選抜とかやってるわけで。「試験がない」からどどっと学生が応募するけれど、これが「倍率が高」かったり、「難しい試験」があったばあい、絶対学生は受けない。倍率2倍以下でも、ちょっとでも倍率が上がると、学生は逃げちゃう(苦笑)。落ちる確率が上がるから。だから日本の大学は何をしているかというと、「いかに高校生が怖がらずに、気楽に試験をうけてくれるように」って工夫しているのね。でもこれはあくまでも総合型選抜入試みたいな無試験型の入試をしているところだけの話。

で、こういうことをすると大学に入ってからどうなるか。学生の質が揃わないです(苦笑)。

すごく失礼な言い方になりますが、関東とかの名前のわかる私立大学にいける程度の頭の学生がいるのと同時に、掛け算割り算すらあやうい学生が机を並べる状態になります。冗談じゃなく。総合型選抜入試をしている大学も、学生をそれだけで入学させているわけではなく、正当なお勉強の試験などの実施もして学生を入学させているから、こういうことが起こっちゃう。

大学側は、「どの学生にもわかる授業を」というので、教員は理解のいい学生にも楽しめる授業をしたいのですが、「わからないという学生」のために大分程度を下げて授業をする必要があります。ブログ主が教員をしていたころ、先輩教員が「今の私の授業の内容、初めて授業やっていたころの1/3の分量ですよ。それじゃないと、学生の大半はついていけないから」と言っていたくらい、程度を下げています。でも、これでも「できない子はできない」。そして「できる子はつまらなくて茫然としている」。

ちなみにブログ主の場合は「持ち込み」で試験をしていたのですが、これは本当に能力差が出ました。できる子は90点台なのに、できない子は30点も取れない(及第点は60点)。なお、日本の大学の場合、よほどじゃないと「単位をあげない」ということができないので、ブログ主のほうが教員なのに試験のほかにもいろんな「学生が単位を落とさない方策」を駆使していました(笑)。

ただ、こうしていたのも「学生に何か学んだ状態をあげたい」と思っていたためですが、今思えば、そういう「ユニバーサル・アクセス型」になっちゃっている日本の大学で、頑張って何かを教える必要ってなかったのでは…?と振り返ったりするのです。

だって、私たちの頃と同じに「何かを学びたい!専門性を身に着けたい!」と必死な子、本当に少ないですから…。あるいは本当に失礼ながら、「気持ち」はあっても授業への理解がついていけない学生が多かった。だからこそ教員は「理解できない学生」が「理解できるよう」程度を下げるのですが…。でもそもそも論として勉強したいわけじゃない子に勉強させようなんて、そりゃ無駄だったな~と、ちょっと笑っちゃうし、今となっては悲しい。

ただ、今となっても、あの大学で何を教えたら正解だったのかは、離れた今でもよくわからない。

なんていうのか、「制作」を教えるのなら、それこそ自己責任なので、勉強しなくてもどうぞ~なんです。ただ、私の専門は文化財保存修復で、人様の、企業の、土地の、国の大事な一点ものの作品をお預かりして、さらに処置をするにおいて、「勉強しなくても大丈夫よ~」なんて、口がさけても言えなくて。ていうか、大学の4年間、必死に勉強したところで全然足りないくらいなのに!という気持ちがあって。勉強させてもさせなくても、「学士(文化財保存修復)」という称号がついてしまう責任感というか…、怖さを感じていました。

でも、世の中が「総合型選抜入試やっている大学=Fラン=大学として認めてないよ」という認識であるなら、そんなに気張らなくてもよかったのかな…と思ったり。

なんていうのかな。かつてね、よく日本で「日本の大学は入りにくく、出やすい、海外の大学は入りやすく出にくい」って言われていたけどもうそうではないよ。

少なくともヨーロッパでは大学入試前に「試験を受ける資格があるか否か」の試験を受けた上で、各大学の入学試験を受けてる(日本とはちょっと意味合いが違うけど、センター入試みたいなものよね)。そういう試験に受かっていないと、そもそも大学入学試験を受ける資格すらないの。多分、日本の場合、これやると大学に入れる学生50%なんて無理だと思ってる…。

だって日本の場合、本当に分数の計算ができない子、授業の話が全く理解できない子、学習障害の子、普通に大学に入ってくる。自分で勉強できない子ばかりが入ってくる…。

だから失礼ながら小学校レベルみたいな会話を、「学生の理解」のために教員が求められてしまう。そういうところでレベルの高い子が満足する学びや専門的な学びをするのは正直難しいのではないかと思ってる。少なくとも「総合型」みたいに「面接で合格しちゃう」ところでは。

こういう理由で、ある専門性のあることを本当に、真剣に学びたいのなら、「きちんと試験で合否をはかる場所」に行くべきだと思ってる。試験があると「自分の理解度の判定」もできるし、いろんな自信を積み重ねられるから。段階踏んで「できた!」の経験があると、気持ちとしても大人になると思うのよ。

文化財に関しては残念ながら「大学から」学べる場所って本当に限られていて、東京藝大では修士からしか学べないのですが…。正直文化財保存修復の専門家になりたい場合、どうあがいても学士ではどうにもならず、最低限修士くらいは出ないとだめなので、修士は藝大!って思うくらいに勉強してほしいですし、そういえばブログ主は最低限、藝大の入試とかを受けたいって学生が思っても困らないように授業をしていたんですよね…。別に藝大に必ず入れって話ではないのですが、ブログ主を含め、通常独学1~2年で藝大修士に入っているので、大学4年もいて、それくらい勉強できないと意味ないのでは?と思っていたんですよ。「文化財の学士」の資格って、少なくともいかなる大学の修士の入試にも対応できるくらいのものだと思っていた。

勿論勉強だけが人生じゃないし、キャッキャ楽しく生きていたいってのも大事かなとは思う。でも、大学は「義務教育」じゃないし、「大学卒業資格」って果たして「大金払って、学校に通うだけ通えばもらえる」自動的な資格だったっけ?と疑問に思っていて、そういう意味合いとして日本という国はなにを大学に求めているのかなということを未だ考えてしまうんですね。

そもそもなのですが海外なんかは小学生でも「できない子」は「留年」させている。「できるようにしてから進級させたり、更なる高等機関に入れる」。それを「その人を育てる」としている。「できる」ようにしてから、さらに高等なことをさせることが優しさじゃないかと。

日本の場合は「他の人と同じじゃないとかわいそう」が基本な気がする。「できなくても他の子が進級しているから」とか「できない子だけど、猫も杓子も大学にいくから」とか。「できていない」を学生に認知させるのは「かわいそう」だと。だから、学生は「自分ができていない」と認知しないまま進んでいく。勉強っていうのは結局家を建てるのと同じで、ベースの大きさ、しっかり度でその上にどれだけ大きく建物が建てられるかが変わるのに、日本の場合は「わからない」の上に「わからない」を積み上げる。「高等な、高校でやることを理解してから大学に来てください」と思うのは、果たして大学教員のわがままなんでしょうか…?

大学教員がこうやって結構苦悩していたりするので(苦笑)、通う学生も苦悩すると思ってる。実際「できる子」が精神的に弱るのはよく見てる。「できない子」は全然困っていないのに。

だからこそ、本当に「勉強したくて大学に行く」ならきちんとした大学へ、試験があって、「学力として最低限の限度」が規定されている大学を選択したほうが、学びの程度がきちんとしていますし、「同じ熱量で勉強できる友達」を見つけやすいのでよりよいと思います。お友達って、やっぱり「類友」だし、やっぱり「あの試験で合格した私!」って満足感も全然違いますし。

あ、でも「鶏口となるも牛後となるなかれ」ともいうから、微妙か。ま、一人でも頑張れたらいいことだからね。

あーでも、そもそも悟り世代だかなんだかの人々には、こうやって「頑張る」自体が時代遅れといいますか、「頑張らずとも流れるままに」が生き方なのかな。それならそれで昭和のおばさんの独り言を聞き流してほしいです。

なににせよ、頑張っても頑張らずとも、縁のある場所にたどり着くだろうから。

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