久々にシリーズの続きを(滝汗)。
この記事は一連のシリーズの5回目ですので、可能なことであれば1回目から順に読んでいっていただけますと、話がわかりやすいかなと思います。お手数かとは思いますが、可能なら1回目から順に読んでいってくださいませ。
オリジナルを大事に、とは、「物理的にオリジナルを大事にする」ことは勿論。でもそれが叶わない場合(いえ実際に物理的にオリジナルを残せる場合でも)、例えば先の記事の場合木造建築の「オリジナル」を物理的に何百年も保たせることは非常に難しいですし、あるいは歌舞伎や落語など演じる人を永久にこの世に留めることが難しい場合などに、では「何を残せば、何を保存すれば遺したことになるのか」という「その物(作品)」の本質や価値を理解し、遺すことが大事と捉えます。
先の記事の「遷宮」に関してですが、実際伊勢と出雲の遷宮が丁度同年になった時、私はまだベルギーにおりまして、その記念的な時に日本にいないことをすごく残念に思いつつ、ネットで色々遷宮について調べていたんですね。悔しくて(苦笑)。
なので以下は当時私が調べ物をした上での考えたことですので学術的なことでも、正しいことでもないことを前提として読んでいただきたいのですが、「遷宮」っていうのは単純に建物を建てる、というそこだけの話ではないというのが当時も今も私の思うところです。
なんせ遷宮に使用する素材ひとつひとつの収集だけでもものすごく大変な話に見えたのです。なぜなら木造建築なのに、条件を満たす木材に関し、天然ものでなければならないとか(神様を降ろす木材が養殖ものであることはありえない、と)。あるいは、何に使うのかわからりませんが朱鷺の羽根が要るとか(一時期日本で朱鷺が絶滅するしないで大変だったことを知っていれば、この段階で「遷宮」できない…!となるはずです)。
すなわち、おそらく日本人が日本の土地や生き物を大事に残していないと(共存していないと)、根本的に遷宮自体できないんだ…と思った記憶があります。遷宮というのはそういう意味で、我々日本人が日本という国や国土を大切にしているのか否かを問う機会なのではないかと、あくまでもこれは個人的な感想で、学術的な話でも専門的な話でもないんですけど、個人的にちょっと調べた際にそういう印象を受けました。
出雲のほうは遷宮までの期間が長いですが、伊勢は30年ごとだったか…。30年前と今と、気象状況すら大分変りました。昨年は夏頃から熊がアチコチで見られ、熊害がかつてないほどでました。また一日で一カ月分の雨が降るような水害もアチコチで発生したり。30年でこんなにも日本は変わったと思うことが私自身ありました。そう思ったときに、ではどうしたら人間だけでなく生態系として、すべての方向性にとって丸くいくんだろうと考えることもゼロではありませんでした。そう思うと30年というのは具体的に「これでいいのかな」と考える区切りではないかと考えもしたのです。子供が十分に大人になる年数でもあるので。
ただ、そういう印象を抱く程度に、遷宮というのは建造物の伝統、技術、形式、外観を伝えるだけでなく、宗教的意義、歴史的意義、日本の国土における日本人のアイデンティティへの問いかけなど、「その建物があることによる意義、意味、価値」みたいなものが感じられます。
ここでこのシリーズの2番目の記事に書いたお話しに戻る感じですが、「何をもってして人はコピーや模写ではなく、本物を見たがるのだろう」という問いに対する答えに戻るのではないかしらと思ったりするわけです。
すなわち物理的に残すことが不可能なもの(歌舞伎とかの伝統芸能とかもそうですね)の「物理」を面だけでなく、そのものが持つ「魂(意義や意図や価値)」が伴っている必要性があるのだと。
そういう考えると、「オリジナル」というのは単純に「物理面」だけでなく、その作品を指させる「魂」の部分でもあるわけで、保存修復家が作品に向かい合った際に「何を残すべきなのか?その文化財の意義は、価値は、意味はなにか?」という問いの答えが「オリジナル」であるというのも一つの側面であると考えるわけです。
このブログ内でも何度か「文化財の保存修復は、車や冷蔵庫の修理とは違う」「文化財のお医者さん」というようなことをいうのはこういう部分もあるからです。
人間だってガワである肉体だけを大事にしていればいいのかというとそうじゃなくて、そのガワの中身である魂(意志や意図や気持ち)を大事にしないと、その人「個人」として扱われた感じがせず、結局のところ弱っていくものですよね…。
中身(魂的な部分、意志、意図みたいなところ)は可視化できない部分ではあるのですが、だからといって「なかったこと」「ないがしろにしていい」部分ではなくて、それなしには「からっぽ」になってしまう、そんなものだと思うのですよ。
だらこそ保存修復において通常物理的に残すことは勿論、その上で「意義や価値」も当然考えるということが当たり前の考え方で、「オリジナルとは?」を考える際の基盤となります。
修復家というのは物理として「作品を未来に遺す」が前提ではありますが、その作品の美観のためだけにただ手を入れる、というのが仕事ではありません。その作品の意義や価値を掘り起こし、それが守り伝えられないと意味がないのです。それは空虚でしかない。
極論ではありますが、ある人にとっては美しく美観的に価値のある作品でも、別の人にとってはそうではないのは当たり前のことで。ある人がある作品を管理している時は大事にされても、別の人にとっては「美観」は必ずしもその作品の命を守る手立てにはならず、だからこそ日本のあちこちでも絵画が捨てられた(あるいは「ないがしろにされた」)!というニュースが出てくるわけです。
日本の伝統建築とかでも「素敵だ」と感動して観る人もいれば、そこに落書きをする心無い人もいます。そういう意味においても、その作品は「こういう意義がある、こういう価値がある(文化財である、というはその価値を非常にわかりやすく示した状態です)」とすると「美観的」には納得しなくとも、人は大事にしてくれるんですよね…。
修復家と言うのは常に世界的有名作品を扱ってるのではなく、地域の作品とか、美術マニアじゃないとあまり一般的には知らない画家さんの作品とか、そういう作品を扱っていたりします。すごく正直に言えば名が知れ渡っている作家さん(あるいは作品)なんてわずかなもの。もっと失礼なことを言えば正直「名前も知らない」、「自分自身好きでもない」その作品や作家の「意義や価値」に関し、学芸員さん、所有者さんが全く理解できない状態で、それゆえにぞんざいな扱いになっている作品だってゼロではありません(苦笑)。
その上で「価値や意義」がわかると、所有者さんたちの作品に対する見方も変わります。見方が変わると大事にしてもらえるんですよね。
そういう意味でも修復家の仕事がただ「壊れているものに手を入れる仕事」というのは、そうではなくて。そもそもに手を入れるまでに何がオリジナルなの?と物理的にも意義や価値としても調査は必須ですし、処置後に作品周囲の方々に末永く作品が大事にされて、最大限永く次に処置する日がやってこないように配慮する、そういう仕事だと思うのです。
本日はすでに大分長くなっておりますので、とりあえずここまで。最後まで読んで下さり、ありがとうございます。ではでは、また~。

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