独り言:美術作品の保存修復における壁

雑記

続きものの記事をお休みして、今回は個人的な吐き出しのような記事です。

毎年ではあるのだけど、作品修復をしていて、大きな2つの壁にぶち当たることがありまして。それらを一気に打破できればと日々思いつつこういったブログをしています。

壁① 修復を学んだことがない人で、かつ、「自分は絵を描いいているから!」という方ほど、恐怖心なく作品を触りたがり、そして壊す

これ、おそらく保存修復をお仕事にしている人が必ずぶち当たることなのですが、所有者であれ、美術館の学芸員であれ、あるいは画家さんなど、「修復が必要」という作品が手元にある方、不思議と恐れずに作品を自分でなんとかしようとします。

さらに不思議なことに、保存修復家の目の前で、「自分でこの作品は、こう手をいれようと思う」と、「いいよね?」という回答を求めるような話をしだす(勿論、止めますが)。

逆説的にですが、私は短い間ですが、大学で学生相手に保存修復を教えていましたが、教えるほどに、学生は作品を触ることに恐怖を抱きます。授業の実習において、学生に作品を触らせる際、必ず教員が指導のために同席していますが、学生自身が教員がいない時に作品を触ることを怖がります。

これは「情けない」という話ではなく、理解が深まるほど「浅はかさ」がなくなるからです。

我々保存修復の専門の人間は、「一時的」な処置をしているのではなく、しかしながら「修復処置」は永遠的な処置でもないことを知っています。

素人ほど、「今」はよくても(というか、大概は「今」すら「よくない」処置をするのが関の山ですが)、一年後、10年後、50年後のことを考えていません。処置したすぐには作品を損傷させていることがわからなくとも、時間とともにそれが明白になっていくことがわからないから、浅はかにも「自分にはできる!」と触りたがるのです。

その反面、「その処置を自分がした」と名前は絶対残さない。

逆説的に修復家は自分が死んだ後にも責任がとれるようにと仕事をするわけです。修復は、100%の善行ではなく、医療的治療と同じに、必ず、作品に副作用を与えることが前提であることを知っているからこそ、それを極めて最小にしつつ、効果を最大にすることを考える。作品が「今」だけでなく、最大限永く未来に遺るために。そのために、修復報告書には必ず修復者の名前が書かれます。修復家の肩に、その重荷を、業を載せるために。

逆説的に、浅はかにも専門的に学ばないまま触りたがる人間は、「責任」をとる、ということは考えません。何かあった時に、自分の名前が、ということを決して考えない。

そして、それがなぜか、というのが二つ目の壁です。

壁② 作品を愛していないから、あるいは、作品が有名じゃないから、どうでもいいと思っているため

例えば、これが「モナ・リザ」なら、保存修復を学ばない人間が容易く自分でどうこうしようとするだろうか?という話です。

有名だから。世界的に価値があるから。世間体があるから。個人的に大好きな作品だから。

大体人がものを大切にする理由として、上記のようなことが挙げられるでしょう。

逆説的に、無名だから、世界的には価値がないから、誰も興味を持たないから、誰も好きではないから。

そんな気持ちがあると、「修復はわからないけれど、自分が触っても」と思うのですかね…。

また、これは「触る人」に限りません。

修復に対し、出資する人も同じです。

少なくとも私が関わる事例ではあるあるなのですが、作品に直に関わる人、例えば美術館の学芸員さんで、某作品の担当様なんかは「作品の損傷具合が心配」である反面、その上部にいらっしゃる館長、あるいは県の関係者とか、そういう方が「この作品を直したとて、修復後、この作品がどれだけの来館者を呼べるのかね?」ということで、修復ができない、ということがよくよくあります。

自分の建物の、自分の地域の、自分の国の作品を、愛していないんですね…。

保存修復家は、「修復をしたほうが」と無理強いはできませんから、その美術館などなりができそうなご提案だけをいくつか提示することしかできないのですが。

それなら「なぜその作品を収集したのか?」と思ったり。

そのセリフを、作者の前でも言えるのかな?と思ったり。

あるいは、一時的な熱狂ではなく、恒久的に大事にできる作品だけを収集すべきでは?と思ったり(とはいえ、これも色々難しかったりしますが)。

美術館さんなどの立場もわかるので、思うだけですし、だからといって、誰もにとってwin-winな方法も出せず。自分に「あ゛ー!」となったり。

でも。

そこに「愛」があれば、色々話は違うのではないかなぁと、いつも思うのです。

そこに「愛」があれば、「修復をしない」という選択肢であろうとも、出てくる言葉は違うのではないかと。いつも思うのです。

あくまでも独り言

結局のところ、自分の力不足だからなのだが…とは思っているのですが。

しかしながら毎度毎度この壁が出てくると、消沈してしまいます。

せめて壊れた状態のまま、触らずに、大事に扱ってあげてほしいと願いつつ。

どうか素人の方が(学芸員さんであろうとも、修復を専門的に学んでいない限りは、保存修復に関する素人です。失礼ながら…)、むりくり手を付けるなんてことがないように…と願いつつおります。

ちなみに、これもあるあるですが、我々保存修復家のところに来る作品は、結構高い割合で、「素人がすでに触ってしまい、どうしようもなくなった作品」だったりします。

で、さらにあるあるですが、「素人さんが触らずに、すぐに保存修復家を呼べば、修復費用の桁が下だったのにね」ということもよくよくあります。素人さんが触った後の作品ほど、桁が跳ね上がると言ったらわかりやすいでしょうか。

素人さんの「いいこと考えた!」は大概「うわっ!それ、やめて!やめて!!」なことで、そこから元に戻すだけで、本当に時間がかかる(人手がかかる)のです。

こういう言い方は好きではないのですが、「お金」が絡むとやっと、素人さんは「自分でやる!」と言う気持ちを3割ほど落としてくれるので(とはいえ100%落ちないのが不思議)、こういう言い方をしています。そういう自分も嫌だったりして…、消沈するんですよね…。

逆説的に言えば、作品の価値が解ったり、あるいは作品を愛してくれれば、話はもう少しすんなりなんだよなぁと。そこをどうにかすると、「処置するしない」に関わらず、作品への見方といいますか、考え方が色々変わるのだが…と。もうそんなことをずっとずっと考えてる。なんとかしたいな…。なんとかできるといいのだが。

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