【雑記】「医療」と「文化財(絵画)保存修復」の間の相違と類似:優先順位の有無

雑記

少々古い2022年7月ごろのニュースの話ではありますが、財務省が国民健康保険の高額医療費負担分に関し、「その廃止および、その負担を国ではなく都道府県に担わせる」と考えている模様。

国民健康保険の高額医療費負担金とは、国民健康保険に関し、1カ月当たり80万円を超える高額な医療費が発生した場合、その一部を国が負担する制度です。例えばですががん治療など、一回の手術で数百万かかる治療にかかっても、申請をすればある程度の金額が戻る制度です。

こういう制度改悪が発生すると考えられることは、「お金がない人間は治療も受けられなくなる」ということです。

マリー・アントワネット的に、「ほほほ。国民健康保険に頼れないのであれば、任意の健康保険に入ればいいじゃないですか」という考えもあるでしょう。しかし、「任意の健康保険」は「健康な人間が入る」もので、特定疾患がある人、すでにがん治療を受けた人などの場合、保険に入れなかったり、あるいは特定年数の観察期間を要してしまいます。つまり、「保険に入る」ことすらできない人(こういう方に限って高額医療にかかる傾向も高くなる)は、国に見放されたと考えてもいいくらい。

しかしそれは、将来的には「健康な人」にも降りかかる。なぜなら生きとし生けるものは皆老いていき、老いるとどうしてもどこかが脆弱化するものだからです(そして、お年寄りが保険に入るのは、なかなか大変な場合が多い)。弱者に厳しい世の中は、結局すべてにおいて優しい世の中とは言い難いように思えます(バリアフリーなどにおいても、弱者において生活しやすい環境は、問題を抱えない人間にとっても生活しやすい世界であるのと同じです)。

このブログは文化財保存修復関係のブログであって、医療ブログでも健康ブログでもない中で、こういう話をしていますのは、いわゆる学術的・倫理的な話に限らず、他にも類似点や相違点があるなぁと思ったためです。

本日は学術的な話でもなんでもないので、ただの雑記となりますが。

複数の「生き物の命」や「文化財作品」の間には、優先順位はあるのか

さて、医療漫画あるあるのテーマ、「命には優先順位」がある。これに対しどのように考えますか?

普通に倫理的に、そして学校の道徳的に言えば否です。いかなる人間も平等に生きる権利がある。

しかし、一国の王様、総理、大統領、世界的スター………、こういった人と一般的かつ無名な社会人が同時に同じ規模の事故に合い、命に危機に見舞われた状態でほぼ同時に病院につき(どっちかというと無名な一般的社会人のほうがタッチの差で早く到着)、しかし外科医が一人しか担当できない場合、どちらが優先されるでしょうか?古い漫画ですが、浦沢直樹の『MONSTER』の始まりはそういう感じだったと思います。

高額医療費問題で『お金のなさが命の切れ目』というならば、『命の優先順位』がそこですでについているように感じられてしかたありません。

ただ、このように言えるのは、日本における国民皆保険が今まで非常に優秀だったからです。なんせ『国民皆保険』ですから。健やかなるときも、病めるときも、多額なお金を支払っている意味を感じます。

いかなる場合も、平等に優先的に処置や治療が受けられるだろうか?

これに対して文化財においては修復の際に使える保険というのがありません(火災保険や車の保険ではどうにもなりませんね…)。ですので、作品を修復できるかできないかは、下卑た話にはなりますが『お金の有無』にかかることは少なくありません。

もちろんこれが『国宝』やら『重文』とかであれば、損失すると重大な問題となりますので、いろんなお金が投入されます。たまに世界的有名作品が修復される際に、総額いくらほどかかったという話が出ますが、あの数字だけを見ると「うわっ、高っ!」と思われると思います。しかしその処置に至るまでの調査やそれにかかる調査機材費用、実際にかかる処置時間、それに対応するスタッフの生活費などを考えると、やみくもにべらぼうなお金を請求しているわけではありません。実のところ非常に常識の範囲内での請求しかしていないんですね。

ただもちろん、いつもいつもいかなる作品に対しても『国宝』と同じ対応をしているわけではありません。そこは国王と一般ピーポーの扱いが同じでないのと同じです。

その中で、文化財においてよくよく言われる言葉が、「お金がないので、修復は見送ります」です。

しょうがないことです。誰も悪くない。

でも、この言葉を聞くたびに、自分の無力さを思い知る気分になります。

実際に、戦争や環境問題などの局限状態になった場合、命か物体かと言われたら、命が最優先だとも思っていて。

そういう優先順位が見えない状態のままでいられるのが平和な状態ではあるのだけど、実際の現場ではそれが巧妙に見え隠れしていて、悩ましい。

人間の生活が安定していないと、一般的に文化にまで気は回せない

それだけもんもんするなら、ボランティアで修復してあげればいいじゃん、というのもおかしなことです。

我々保存修復家だって、カスミを喰って生きているわけではなく、お仕事である限り労働と対価は引き換えだからです。

パンがほしい人がお金を持っていないので、無料でパンをあげる、ということをしないのと同じです。それをしだしたら、なぜある人はお金を支払っているのに、別の人は無料でもらうのかということで、最終的に仕事は成り立たなくなります。

人間の生活なんて、衣食住が安定して初めて娯楽などに心がいくものなのにね。日常生活の安寧のない世界において、文化が先細りしちゃうのだって目に見えていて。特に誰しも新しいものを購入することはやぶさかではなくとも、すでに持っているもののメンテナンスにお金をかけることなんて、好きじゃないですからね…。

ちゃんと国民の生活基盤が揺るがないようにしてほしいものだなぁとしみじみ願いつつおります。そういうところから、「文化財」自体が大事にされるかどうかが分かれてくることもありますから…。

本日も最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

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