ニュースから:「化石燃料への抗議活動」としての有名絵画への問題行動

雑記

イギリスのロンドンにあるナショナルギャラリーにて、2022年10月14日に「化石燃料に反対する抗議者」がフィンセント・ファン・ゴッホの作品「ひまわり」(1888年制作)にトマトスープをかける事件が発生した模様(参照:ゴッホの「ひまわり」にトマトスープかける、化石燃料に抗議 英美術館 – CNN.co.jp 参照日2022年10月16日)。

さらにこの抗議者は作品の下の壁に自らの体を接着。

これら「ジャスト・ストップ・オイル」のメンバーによる、有名絵画を対象にした抗議活動はこれが初めてではなく、7月には複製画ではあるもののダヴィンチの「最後の晩餐」やボッティチェリの「春」、また、今月中にはピカソの「朝鮮の虐殺」や他の画家の作品にも同じようなことが行われているという。

別のニュースで見たもののうろ覚えとなりますが、どうも抗議者は「文化財か人間か」というような極限の2択のようなことも言っている模様。

ものすごく究極の2択ですけど、もし文化財を捨てなければ人類が滅亡するというなら、人間を選ぶしかないでしょうけど、正直その「これをすてなければ人間が滅ぶ」の「捨てる対象」が「有名絵画」という段階で、個人的には「??」となっております。

こういう例はあまりしっくりきませんが、恋人や配偶者に「私と仕事とどっちが大事なの?」と言われているような。どっちも同じほど大事で、でも大事さのベクトルが違うよ?みたいな。仕事を失った僕(私)でも、あなたはいいの?みたいな。そういう「そこじゃない感」を個人的に感じてしまいます。

私は絵画を保存し、未来に伝えることを重要視している立場ですので、こういうニュースは本当に残念に思いながら見ています。

その上でこういう言い方は「三匹のやぎのがらがらどん」的でちょっと嫌ではあるのですが(「僕を食べないで、次に僕より大きいやぎがくるから」みたいな)、「化石燃料」に対して抗議したいなら、もっと別の抗議するべきものがあるはずなんですよね。つまり、因果関係としておかしい主張をされても、誰も納得しないよ?という消化不良感がそこにはありまして。

同時にですけど、私自身がまだ画学生であった際に、当時の担当教授によく言われたことの要約として「主張には命を懸けろ」と言われていたことを思い出しました(さすがにこれほど直球な言い方はされていませんが)。教授の言いたいこととしては、例えば自由に物が発言できないような時代や国や場面であっても、命を引き換えにしてもあなたがその主張を作品として主張する場合に作品に命が宿るみたいな、そんなことだったはずです。

で、なぜそんなことを思い出したのかといいますと、あくまでもブログ主の個人的な感覚でしかありませんが、残念ながら「抗議者」のやっていることがパフォーマンスにしか見えないからです。実際に抗議活動をしている国や時代として、「命までは取られない」上に、目立つからこそ(時代的にあっという間に世界的に拡散されるからこそ)しているパフォーマンスで、もしこれが美術館の壁もろとも撃たれる国であったら、果たしてこの人たちはこういうことをやっただろうかと考えてしまうのです。

「人道的に、自分の命までは取られない」前提の行為ですよね?と。その上で、文化財のほうは意図的に破壊される危機にある。

何かを傷つけるような抗議というのは、本来その代償は大きいものです。歴史を顧みても。

正しいことをしているのに、時代的に思想が早すぎて回りがついてこれなくて、抗議者にとっては不幸な状態にあったことは歴史的にいっぱいありますよね。

でも、「話を聞いてくれ!」のために、そもそもにナイフを突きつける対象が「なぜ、それなの?」というものを選択した段階で、周りがきちんと耳を傾けなくなってしまうと思うんですよね。信用が失われてしまうので。しかも自身へのリスクも少ないことをしていても、ただ文化財が損害を被っているだけの話で、他者(文化財)と本人(抗議者)のリスク量が一致していないと、正直人は抗議者の正当性は信じないと思うのですよ。

美術作品や文化財は、ただぼーっとしているだけで残ってきたものじゃないです。例えばベルギーのファン・エイク兄弟のゲントの祭壇画なんかは、まさに「人間の命か、文化財か」という戦禍の中で、人が言葉どおり命をかけて必死に守ってきたものです。

勿論作品自体の潜在的脆弱さ、経年などを含む不可抗力で作品が失われることなどはあると思いますし、限界はあると、こういうことを仕事としていても思います。でも、不可抗力と「わざと」は違うんですよ。

「文化財か人命か」という問いというのは、非常に深いものですし、正直簡単に論じることができない事柄であると認識してはおりますが、果たして「わざと文化財を壊す行為を行う人間」の価値というのは、いかなるものでしょうか?とも考えてしまいますね。こういう問いは、死刑制度の在り方や、病院での命の価値のようなところにも結び付くので、簡単に話せることではない前提ですけど。

なんていうのかしら。自分の主張に正当性や重要性を持たせるために、かるがるしく「人の命」を「そこではない」場面で天秤にのせる人の話は胡散臭いですし、加えて人が大事に大事に、愛し、守り、伝えてきたものに対して恐れを持てない人は、果たして本当に「人命」をも大事にしているのかなと個人的な感覚ではありますが疑いを持ってしまいます。

ただ、こういうのはブログ主がニュースを読んだ時に個人的に思ったことですので、時間の経過とともに感じることは変わることもあるかもですが、皆様はどのように思われたでしょうか?

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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