ここ連日、絵画(主に油彩画・テンペラ画)の構造についてお話しております。本日は「下絵」および「絵画層」についてお話します。
「下絵」ってなあに?
まず下絵とは何か、ということですが、ここにこういう絵を描こうと位置決めをしたり、形をきめるような目的で描いたり、そういった完成する絵画構成の本質的特徴を決定するものとなります。
画家さんによって、作品の性質によっては下絵なしの作品もありますし、直近の記事の「絶縁層(地透層)」にてお話しましたとおり、絶縁層の塗布の前に下絵を描くこともありますので、位置的には「下地層」の上にある場合もあれば、「絶縁層(地透層)」のうえにある場合もあります。
下絵自体を作品鑑賞する際に「いいですなぁ」と眺めることはほぼありませんが、我々絵画保存修復の業界においては、作品の調査の際にこれの調査・観察を実施します。特に古典絵画ほどこれの観察は非常に重要になります。
古典絵画の場合は、画家一人の手によるわけではなく、徒弟制度の中で作品を制作していることなどもあるため、どこまでが画家本人で、どこまでが弟子(あるいは親しい画家)の手によるものなのかの判別などが必要になるためです。
こういった「誰の手?(オリジナルかどうか)」というようなことや、「画家の意図」、「画家の考えの変化」などをつかむ場所として下絵は重要なカギのひとつとなります。
この下絵の技法の中に、少々興味深い技法がありますのでご紹介します。
絵画の中には、フレスコという壁画技法があるのですが、この壁画技法において15世紀あたりから、下絵を直接壁面に描くということをせず、カルトーネ(cartone)という原寸大の下図を別紙につくり、この下図の輪郭線に沿って穴を開けたものを使うようになります。
この輪郭線に沿って穴を開けた紙を壁にあてて、穴の上から木炭粉末やオーカー(黄土)粉末などをタンポンで刷り込んで壁面に転写し、この紙の穴(スポルヴェーロ)から転写された点々を結ぶように線の描き起こしをする、こういう技法が発達したことによって、大分細部に及んでの下絵起こしが可能となりました。
やがてこのカルトーネの技法は、フレスコだけでなく、板に描く細密な油彩画などにも利用されるようになるのです。
さらにきちんと理解すべきは、こういう技法が可能になったのは、「紙」の存在のおかげであるということです。我々の生きる現代では、紙の存在は当たり前ですが、ヨーロッパに「製紙法」が伝わったのは12世紀。しかもヨーロッパの国によっては14世紀末や15世紀まで待たなければならない国もあります。
我々のお仕事は「お宝探偵団」のような「真偽」のことをやっているわけではありませんが、こういう下絵のような部分で時代背景などがわかったりすること、表面的には美しい嘘をついていても、その下の層などで嘘は見破れたりすることがあります。(そのほか色々見るべき箇所はありますよ…)。
画家本人にとって「下絵」は「こういう風に絵を描こう」という未来予定図ではありますが、我々保存修復関係者にとっては「作者」への理解を深める大きな部分の一つでもあるわけですね。
絵画層ってなあに?
こういった様々な層(基底材(支持体)→下膠(前膠)→下地層→絶縁層(断絶層)→下絵)のうえにようやく絵画層が塗り重ねられます。
絵画層とは、絵の具で描画された層です。通常我々が絵画を鑑賞し楽しむ際に眺めているのがその部分となります。絵画というものを楽しむ部分、美観的要素を最も持つ部分ですね。
油彩の場合、一般的には何層も絵の具が塗り重ねられることによって、様々な色彩のニュアンスや厚みの変化、テクスチャーを与えられることで豊かな表現が実現される部分です。
油絵の場合、絵の具は「色を担当する粉体(顔料あるいは体質顔料)」と「接着する役割をする粘りのあるもの(乾性油あるいは加工乾性油)」によって構成されています。
顔料は、使用された時代や、見ための色彩など、いろいろな分類の仕方がありますが、たとえば「天然顔料か合成顔料か」あるいは「有機顔料か無機顔料か」のような分類の仕方もあります。
用語としては、天然顔料は岩や石のような自然界から採取することができるものからできたものを指します。それに対して合成顔料は人間の意図によって化学合成されたものを指します。天然のものが一定のクオリティや美観を持たず、さらに不純物などを含んでいることなどに対して、合成顔料は一定のクオリティや見目を保ち、混じりけのない不純物などを含まない製品を作ることができます。
こういう言い方をすると、合成のほうが天然顔料より優れていると考えるかもしれません。もちろん、安価に常に同一のクオリティの製品を、絶え間なく製造できる点は断然天然顔料より合成顔料のほうが優れています。購入する立場からすると、同じ名称の絵具チューブを購入しているのに、チューブによって微妙に色味が違うみたいな不都合が出ず、いつも全く同じ色合いで生産するという目的達成は、合成顔料のほうがやりやすいのではないかと考えます(なぜなら、色味に関しては製造会社さんがきちんと色味の確認・調整をしながら製造しているので、「合成顔料を使っているから」と安穏と製造しているわけではないだろうと推察するためです。そう考えると、絵具製造会社さんというのはすごいですよね)。
しかし天然顔料のよいところでいえば、その美観、色彩としての美しさについては天然ものの方がより優れていると考えられています。なぜかといいますと、合成顔料には不純物などの混じりけが全くないことから、色味が単調と言われています(合成顔料を電子顕微鏡下などで見ると、集合恐怖症の方からするとぞっとするくらい、全く同じ形状同じ大きさの粒子が揃っています)。逆に天然の素材は、複雑な色味を持つことから、色味として味わいがあると考えられているのです。
こういう例はあまりぴんとこないかもですが、「お汁粉」とか「おぜんざい」みたいなものを「砂糖」だけで作っても味が単調でおいしくないそうです。ほんの隠し味程度にですが、甘味とは異なる「お塩」を入れてあげると、味が複雑になって、人はより「おいしい」と感じるらしいのです。
この時に注意しなければならないのは、「お塩が入っているね」とわかるほどは入れない、ということです。
人の感覚というのは非常に敏感なもので、別段「塩」が入っている入っていないを認識せずとも、「お塩」が入っているほうを「複雑な味である」と認識するそうです。で、「複雑な味」のほうを「おいしい」と認識する模様。
これの視覚ヴァージョンであると考えてほしいのです。天然顔料の不純物も、人の目でわかるほどに「不純物だなぁ」ってほど入っているわけではありません。しかし、合成顔料の全くの同一、全くの一様から考えると、ほんの少しの変化が「複雑」と認識されて、「美しい」と認識される。そういう人間の感覚の不思議ってものがあるようです。
ただし、実際天然の素材で絵具を作ろうとすれば、それは非常に高額なものとなり、さらにクオリティを一定にすることが非常に難しくもなるでしょう(これは例えば「青色の顔料」で天然のものを検索していただければ、それだけでいかに無謀なのかはご理解いただけるかと思います)。
大量生産・大量消費という世界や、「限られた職業の人だけでなく、誰しもが芸術的行為を行いたい」という希望がある世界の中では、安価で便利な合成顔料が発達してくれたことは非常に有用ではあると考えられます。
本日のまとめ的なもの
このシリーズの「下地層」の部分があまりにも長かったので、今回はできるだけ簡単に書いてみております。その分、別の機会に別の視点でもう少し詳しく書いていけるとよいですが。とはいえ絵画層のお話は次回に続きますので、その点ご了承ください(^^;)。
我々のお仕事とかで、よく赤外線写真(炭素に反応するので、炭素を使った素材で下絵を描くと確認できる)とか、電子顕微鏡(今回のお話だと顔料の形状などの確認ができる)とかの話がでてきますが、「なんでそんなものを使うの?」というのもおそらくなんとなくご理解いただけたのではないかと思います。
下絵の描き方、使われる顔料など、時代によって異なることがありますので、色々調査ポイントを観察すると、「制作された時代が合ってないなぁ…??」ということなどがわかったりします。
ただし、単に機材を使えばわかる、という話ではなくて、そういう前知識がないとどんなに目の前に大きくヒントが映し出されていても猫に小判ですし、機械にかける意味がありませんので(色々調査機関の調査費用を調べて見られるとよいかと思いますが、一度の調査に諭吉が何人いなくなるか…)そこはご注意を。
なんていうんでしょうね、ブログ主が学生だったころ、特に海外にいた頃は、「機械にかけるのは、自分の考えが正しいことの【確認のため】だ」と言われたほど、機械にかける際に提出する書類に「自分の見解、なぜそう考えたのかの理由」などがしっかりしていないと、機械での調査なんてできないくらいに、言われていました。機材があればなんでもわかるというのなら、「人」は不要ですから。
本日は下地のお話よりかは分かりやすかったでしょうか?最後までお読みくださり、ありがとうございます。
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