作品の調査をすることは、作品に興味を持つこと(^^)

修復を学ぶ

直近の記事までに、作品の損傷を大きく3つに分類してみました。

大学で授業をしておりました際は、その後さらに作品の構造(基底材、前膠塗り、下地、地透層、下描き、絵画層、ワニス層)ごとに詳細に細かく損傷およびその発生原因について説明しておりましたが、ブログ上ではなかなかこの説明がややこしいなぁということで(授業の場合はパワーポイントをお見せしながら、お話できたけれど、文章だとなかなかややこしい…)、ここから少々「調査」についてお話したく思います。

この記事に至るまでの間に、先ほどお話しました「損傷」のお話もそうですが、作品(特に油絵作品やテンペラ作品を構成する)「構造」についてもお話してきました。こういうまず、個々の作品の「構造」を理解し、さらにそういう「構造」も持ち、「個性」を持つ作品が、「なぜ」そのような「損傷」を持ったのかといった「理由」を理解することがすごく大事である旨を過去の記事でもお話してきました。

さらに言えば、「作品そのものの構造(オリジナル)」と、「損傷」、「過去の手入れ(画家自身によるものか?あるいは修復家含め他者の手によるものか?」をはっきり分類することが求められます。

こういう「構造を理解」し、「損傷」を見極め、「その発生理由を推察する」ことも調査の一部です。

では、なぜ上記を含め、さまざまな「調査」というものが必要なのでしょうか。

それは、我々作品の保存修復に携わる人間は、基本として「オリジナルに手を加えることができない」からです。だからこそ、少なくとも、ここからここまでがオリジナルである、ということを言明する必要性があるわけです。

それだけではありません。作品の調査が十分求められるのは、処置の実施が前提である場合、その処置の技法材料としていかなるものを選択すれば作品を傷めないものとなるか、あるいは将来的に実施した処置がよい可逆性を以てして作品から除去できるものでなければならないためです(作品に対してダメージを与えず、修復処置のみが容易に除去できることが求められる、ということです)。

さらに、損傷の原因をも考察し、可能な限り明確化させるのは、いわゆる「損傷」と評価したものに対してどこまで介入できるかを考える指標とするためでもあります。「損傷」に対し、いかなる場合も、何も考えず手を入れるわけではありません。例えば、「絵画層の亀裂」などは、作品の美観において鑑賞性を損なう傾向のある損傷ではありますが、これに対して常に美観的処置を施すわけではありません。「亀裂」は「損傷」でありながらも、そこに「別の価値」が見いだされる場合は、保存的処置はなされても美観的処置はなされないこともあります。

具体的な例をお話しますと、非常に簡単にネットで検索できる例としまして、有名なダ・ヴィンチの「モナ・リザ」のアップの写真などをご覧いただくとよくわかるのですが、画面全体に亀裂が入っています。でも、それらの亀裂が我々の視覚として「観察できる」ということは、それらに対して美観的な処置はしていない、ということです。反面、一般的に「亀裂」というのは、絵画層などの剥落の恐れのある兆候ですので、それらに対して接着強化処置というような保存的処置は実施済みであろう、というこういう感じです。

「亀裂」は「損傷」だから「悪」である、と短絡的に捉えるのではなく、一つ一つの作品に向き合って、「損傷に対して処置を実施するのかどうか」、「処置をするならどの程度までやる必要があるのか」あるいは「どういった技法材料で処置を実施すべきか」というようなことを考える起点として、さまざまな視点での「作品理解」が必要であり、また「損傷の原因の明確化」が求められるわけです。

上記のようなお話をすると、「あれもやらなくちゃ、これもやらなくちゃ」と義務や責務を感じるかもしれませんね。実際、一つの作品の未来、そしてある意味命を預かっておりますので、確かに「責務」の重みを非常に感じるところではあります。

しかし、こういう言い方は全くもって学術的ではなく、加えて大学などの高等教育的でもないのですが、調査というのは結局のところどういうことなんだろうなと思うに、「作品に興味を持つ」ということに尽きてしまうように個人的には考えるのです。

「やらなくちゃ」という風に義務化したような気分になると、それは最終的に「タスク化」してしまって、作品に対する感動を失ってしまいます。「感動」を失いますと、それに伴い「わかってあげたい」という気持ちも失いがちになる気がします(あくまでも学術的でも教育的でもない話ですので、ぼんやりした感覚の話に過ぎませんが)。そして最終的に「わかってあげたい」という気持ちなしには、いろいろ見落としも出てくるように思うのです。

我々文化財保存修復関係者が取り扱うのは、いつもかもネームヴァリューのある作品や画家さんに限りません。無名の画家さん、あるいは「たまたま自分が知らない画家さん」「自分が興味を持っていなかった画家さん」の作品がやってきて、「無名だから」「自分が知らないから」といって、興味が持てない、価値がないと評価するのは違います。

文化財保存修復関係者の元に、一つの作品があるならば、それは少なくとも誰かがその作品に対して「なんとかしてほしい」というお気持ちを抱いているということ。それがもし、たった一人の方のお気持ちであろうとも、その方にとりかけがえのない作品であることは変わりはないのです。

ブログ主が関わった例ですと、「鬼籍に入られたお祖父さまの作品」をなんとかしてほしいというお孫さまのご依頼を伺ったことがあります。画家はなく、ご趣味で絵を描かれていたお祖父さまで、言ってみればその作品を愛でるのはお孫さまのみという状態。その作品を知り、愛しているのはお孫さまただ一人ではあるのですが、逆に美術館に入っている作品の全てがこの作品ほど愛されているだろうか…と考えることもあります。「有名だから」というのと「愛している」は違いますから。

無名の作品でも一つ一つ、異なる価値がある限り、どんな作品でもその価値を認めることがとても大事と考えていまして。そのためには、一つ一つの作品への関心というのが必要だと思っています。そしてそれがすごく調査においては重要な要素ではないかと考えております。個人的に。

学術的な話ではありませんし、それこそ修復家が100人いたらそれぞれ考えは異なるとは思いますけどね(^^;)。

本日はこういったところで。最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

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