文化財保存修復の倫理について考える②:テセウスの船に踏まえて2/3

修復を学ぶ

直近の記事にて、有名な思考実験「テセウスの船」を元に、文化財保存修復について考えてみています。この記事は続きの記事になりますので、そもそも「テセウスの船」って?ということも含め、色々本日の記事の内容を理解するためにも、もしご興味がありましたら直近の記事を先に読んでいただけますと幸いです。

さて、直近の記事においては「美術品は完全体でなくとも美術品である」というごくごく当たり前に思われることをお話しました(^^;)。反面、もしその美術品が「かけら」しかなかったら?というような問もしてみました。

とはいえテセウスの船というのは思考実験ですので、色々な見方ができると思うので、今回はまた違う方向で考えてみたく思うのです。

例えば、直近の記事では強調しませんでしたが、「テセウスの船」の詳細の大事な部分は、あくまでもいきなり「今は存在しないテセウスの船を、想像で作りました。その後に本物のテセウスの船が発見されたけど、それは奇跡的に、想像で作ったテセウスの船と大きさも見た目も何もかも、寸分たがわず全く同じでした!」という話ではない、ということだと考えます。

すなわち、もともとはいくらぼろぼろの状態であろうとも、「オリジナル」の見た目も大きさも素材も作り方も、何もかもわかっている状態で、「でも、部分的にぼろぼろだから、どうしようもない部分は同じものを新調してとりかえよう」とした結果であること、です。言い換えると「未知」を「想像」で「創造」したわけではない、ということ。

これ、わざわざ3つの単語をカッコ書きにしているのは、「未知(理解なし)」も「想像(イマジネーション)」も「創造(クリエーション)」も、保存修復関係者がやっちゃいけないことですので、「テセウスの船」において「少なくとも見た目に関して」は、保存修復で「やっちゃいけないこと」はしていないんだよなー、ということが重要な点だったりします。だからこそ、「見た目全く同じ船が2隻」できているわけで、「未知(理解なし)」「イマジネーション(きっとこうだろうという、「だろう」判断)」「クリエーション(本来の作品の状態を基軸にしない行為)」のいずれか一つでもそこに介入した場合(あるいは実力不足とか、ほかにも色々ありますが…)、「寸分違わぬ船が2隻」は実現しないはずなんですね。

我々保存修復家の処置、特に美観を補完する「充填整形・補彩」においてはこの「寸分たがわぬ船が2隻」状態が求められる部分があります。反面我々の仕事において「未知(理解なし)」「イマジネーション」「クリエーション」で処置をしてはならないことから、作品の欠損の大きさによっては「補彩」そのものが叶わない場合もあります。

よくよくありますのが、「人物が描かれている作品」の「顔」が完全に失われている場合。場合によっては完全でないにせよ、ある程度の回復がされる場合もあります(作品の下絵、スケッチなどが残っている場合や、後年の画家が何人も何作品も該当作品のマネをしている場合など)が、一般的には「顔」という最もアイデンティティの強くでる部分が失われている段階で、「未知」「想像」「創造」を入れこまずに処置はしにくいと考えます。顔の部分というのは、1ミリずれるだけで全く雰囲気も表情も違うことになりますから。オリジナル(あるいは上記のような参照できるなにかといった足掛かり)が全く残っていない段階で補彩はやらないですね…。

あるいは、作品の画面の主要部分の大半が失われているものなんかもそう。顔に関わらず上記の「未知」「創造」「想像」が関わりそうな場合なんかは難しいですね。

よく美術館などで「画面が失われたままだなぁ」という作品がありますが、それは、「欠損したままでも作品は作品である」という原則に基づくとともに、下手に修復家が「きっとこうだったんだよ~」と想像力いっぱいにクリエーションするよりは、「作品の事実のみ」を展示するほうが「誤解を与えない」ということを選択した結果であると考えて頂けるとよいなと思います。

違う言い方をしますと、仮に「想像力いっぱいに、ある修復家が、多大に絵画層の損失している作品を補彩しつくした」。しかし100年後、研究により「その作品の本来の姿が理解されたが、その姿はかつて修復家が補彩した姿とは全く違うものであった」。画家の意図を考えると「作品は本来の姿に戻す」のが適正である。反面、100年間、その作品は「クリエーションされた姿」で地元や世界に親しまれ、「その姿」があたかも「真の姿」のように扱われてきた。それは「正しい姿ではない」のに。という心理的軋轢がでてきます(これは修復家自身の軋轢ではなく、専門家以外にとって「その修復こそが破壊」的に捉えられてしまう心理が沸く、という風にご理解ください。だって、過去の修復が「真の姿」と理解されているのですから…)。それって…専門家が正しいことをしているのに…「なんだかすっきりしない…」って感じもしますよね。

違う言い方、わかりよい言い方をすれば、「オリジナルの状態への理解がないまま、修復家の想像力をもってしてクリエイトしてしまう」と、それは「修復家の作品」になっちゃう、ということです。だって画家の求める美観や意志を尊重していないから。修復家の処置によって「画家本人の作品」ではなくなっていた、ということです。それは、「修復」ではありません…。もって言えば、いくら煌びやかで美しいものとなっていたとしても、作品に対する加害でしかありません。

「作品は欠損していても作品である」というのは、修復を可能とするものであると同時に、作品を守る言葉でもあります。すなわち、無駄に「想像」し、「クリエーション」しなくても、絵画層が失われたままでもその作品が作品であるのだから、「わからないなら、わからないで、(特に美観的に)無駄な手を入れるな」とも言えます。それが後年への誤解を与えるものなら、やらないほうが賢明です。その作品の本質、事実を、過たず伝えることが大事です。

なお、こういうお話をしていると、「ではどのくらいの壊れ具合なら、補彩とかができるのですか?」という質問がでてきたりもするのですが、あくまでも作品によりけりです。

ブログ主が充填整形・補彩した作品の中で、最も大きいタイプのものですと、おおよそ「5cm×30cm」の大きさのものがあります(部分によっては5cm部分が小さかったり大きかったりしますが、平均的に、ということでお考え下さい)。普通に考えて結構な大きさの欠損です。それでも処置が可能なものもありましたし、逆の場合ですと「点くらいの大きさだが悩ましい」というものもあります。また、ブログ主自身が実施したものではありませんが、顔の損傷の激しい作品において、完全な状態ではありませんが、見苦しくない程度に、想像や創造ではない程度に顔の補完が行われた例も知っています。

ですので合理的にコンピュータのように、「何%失われたから、補彩できるできない」というわけではありません。

しかしながらこうやって考えていきますと、もしある種の作品において、過去から現在に渡り相当修復がなされていて(とはいえオリジナルの美観に忠実な処置がされていて)、実はオリジナル部分は画面の1パーセント程度しかないといった場合、我々は何を鑑賞しているんだろう…とは思うのかもしれないですし、場合によっては全くそうは思わないかもしれません。

だからこそあくまでも個人的な見解にはなりますが、こういうことを「考える」ときに「それを残すことで、我々は何を伝えようとしているのか」あるいは「それにおける『何を』残すと、それを残したということになるのか」という本質の有無が重要になってくるように考えています。

というわけで本日はここまで。最後まで読んで下さりありがとうございます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました