文化財保存修復の倫理について考える②:テセウスの船に踏まえて3/3

修復を学ぶ

2つ前の記事から有名な思考実験「テセウスの船」を元に、文化財保存修復について考えてみています。この記事は続きの記事になりますので、そもそも「テセウスの船」って?ということも含め、色々本日の記事の内容を理解するためにも、もしご興味がありましたら2つ前の記事を先に読んでいただけますと幸いです。

また、2つ前の記事を踏まえまして、直近の記事にて異なる視点のお話をしております。なお、2つ前のの記事においては「美術品は完全体でなくとも美術品である」というごくごく当たり前に思われることをお話しました(^^;)。それに対して直近の記事におきましては、「テセウスの船」の在り方として、「オリジナルの素材でできているものにせよ、そうでないものにせよ、あらゆる面で全く瓜二つの船ができている」という点が大事な点であるとお伝えしました。すなわち、非オリジナルである船が「全くのイマジネーションからなるクリエーションではない」ということが大事なことだというお話をしました。

繰り返しますが、過去2つの記事の詳細に関しましては、それぞれの記事をご覧ください。

当記事におきましては、なぜ2つ前の記事にて「それをそれたらしめるものは何か」ということや、直近の記事にて「それを残すことで、我々は何を伝えようとしているのか」あるいは「それにおける『何を』残すと、それを残したということになるのか」という本質への理解を重要としたのか、ということについてお話していきたいと思います。

というわけで本日の記事。

実を言いますと、西洋の文化にはおそらく殆ど例がなく、日本には普通に歴史的にある「文化財を後世に遺す方法」っていうのがあります。

何だと思いますか?

日本は木や紙の文化ですよね。建物なんかは現在こそ鉄筋コンクリート建てなんかがありますが、日本の家屋は伝統的には木造建てです(対して西洋の場合は石や煉瓦によるものですので、長く残ることが多い。とはいえ、石や煉瓦だから手入れなしでよい、という話ではなく、例えばローマのコロッセオなどにせよ、手入れをしているから残っているのであって、手入れなしにはどうだろう…とご理解いただくとよいでしょう)。

いうほど最近ではないですが(すでに10年以上経過しているのか)、最も最近ですと、出雲大社と伊勢神宮の遷宮が行われました。あれは、いわば定期的に建物を建て替えているのですが、同時にそれにまつわる文化および建築技術などの伝承をしているんですね。

この2社の遷宮の頃は、ブログ主はまだぎりぎり海外に住んでいる頃で、リアルタイムみたいな頃にお参りに行けた方がうらやましかったことを覚えています(苦笑)。またそのころに「遷宮」に関して色々調べてみたところ、遷宮の際に使用する木材は天然ものじゃないとダメであるとか、鳥のトキの羽根だったかが要るとか、なんとか色々お約束事があったように覚えています。

そもそもトキは今でこそ絶滅を免れている様子ですが、かつては残り数羽という頃もありました。単純に建物さえ残ればいいという話ではなく、それを取り巻く日本固有の自然や文化が残っていなければ遷宮は不可能なのだとその際は個人的に思った覚えがあります。すなわち、社そのものは勿論ではあると同時に、その社はそもそもに日本の風景や自然、文化、技術そういったものがずっと続いているよという象徴みたいなものなのではないかと。

テセウスの船も正直これに似ていると私は思っているのです。勿論テセウスが乗り込んだという船そのものが当時のままの状態で残るのが文化財保存修復の観点においてはベストではあるけれど、日本家屋同様、それ自体を残すことがもし不可能であるならば、「何をもってして、テセウスの船なのか」というところの理解が重要になると思います。そしてその上で「テセウスの船として何を遺したいのか、後世に伝えたいのか」というところが伝えられる、というところが評価するポイントではないかなぁと個人的に思っていたります。

上記の「何をもってしてその作品なのか」というのは、いかなる作品においても非常に重要なことです。だからこそ、「作品理解」なしに文化財保存修復というのは成り立たず、また、「壊れれいる→手をいれよう」みたいな脳筋的なお仕事ではないことが伝わってくれれば…!と常に願っております(苦笑)。

また、上記のとおり作品を理解することが必須なうえで、「何のためにどういった手を入れるのか。それはなぜか。なぜ現段階で、《私》が実施する必要があるのか。ではどの段階まで処置可能か」ということが処置者の頭にないと、少なくとも「その作品がその作品であり続ける」という形で後世に遺していくことは、なかなか難しかったりします。

実際「その作品がその作品である」という風に尊重するって当たり前のことなんですけど、実際はその当たり前を実行すること自体、簡単なことではありません。だからこそ、あちこちで(特にお金のない地方などで)修復家でもない人に作品をゆだねて、「尊重されない処置」がされる、ってことがされているわけで(よく海外のニュースで見ますね)。それだけ「作品を尊重する」って抽象的で難しいことなのだと思うのです。

2つ前の記事にてお伝えしましたとおり「文化財は欠損した状態であっても、文化財であり続ける」という当たり前の定理がある上で、でも修復の依頼をしてお金を払う人の気持ちを考えるとどうでしょうか?きっと、修復家に高いお金を支払う限り、それでも「完品」であってほしい、「完品」にならないのはおかしい!と思っちゃうと思うんですよね。そして、その気持ちは誰しも理解できることだとも思うのです(勿論修復家の立場からしても、「そうでしょうね」と思います。苦笑)。

でも、少なくとも文化財保存修復の考えでは、「見た目、ぴっかぴっかの新品にすること」が処置の目的ではないこと。「その作品(テセウスの船)がどうしたらその作品(テセウスの船)たりえるのか」ということこそ大事なことである旨を、ご理解いただけたらなと思います。

くり返しとなりますが「後世に遺す」ということは決して完品状態であるべき!って話じゃありません。作品の状態によっては「現代において、物理的に、(あらゆる科学的技量をもってしても)技量的に、金銭的に…いろんな意味での《処置できない》」という現実もあります。その《できない》を押しのけて、それでも《この私が手を入れてやる!》というのがかっこいいのではなく、《できない》ことに対しては「今以上に壊れないよう。少なくとも今の形で後世も残るよう」という「保存し続ける」ということができれば御の字なのです。

そこの判断を過たないことが、その作品の「らしさ」を守り、後世に遺すことに繋がると考えます。保存的処置に徹したとしても、修復処置も実施したとしても、ね。

ま、テセウスの船など、思考実験の条件というのはあくまでもざっくりしているので、他の実例と重ねると例によっては可否が分かれて一概に一つの回答では回答し難かったりもします。でも、こうやって個人的に色々考えてみると気づきのようなものがあったりもして面白いものですよね。

というわけで本日はここまで。最後まで読んで下さりありがとうございます。

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