最近お祭り関係の事故があったことなどから、ABEMA TVでも「お祭り」に関して議論をしているのを見ました。
有名どころのお祭りが開催されると「行ってみたいな」「参加してみたいな」と思われる反面、それらのお祭りで人命にかかわる事故があったり、あるいは家屋などへの損傷のような事故が発生すると、複雑な心境になってみたり。
そういった有名どころのお祭りでも色々あるのと同じに、昨今の人口減少、若い世代の人口の少なさからして、人不足、資金不足などが発生することにより、知名度が少ない、続けることに重荷を感じられているお祭りもあるようで、「そこまで労してお祭りを続ける意義」が問われている様子。
正直なところ、私自身、お祭りなども「伝統」だからということだけが念頭にあり、これを「残す」か否かという「選択肢」自体を自分は持っていなかったんだなぁと気づきました。自分自身の偏りに、改めてびっくりした次第です。
こういうと変な感じかもしれませんが、「お祭り」の小さなものは、例えば学校の文化祭やスポーツ祭みたいなものもそうだと個人的に思っています。あの小さな集団の中でさえ、「運営」は色々手を尽くしていて、その中で楽しむ人もいれば、「やらなくていいじゃん」と思う方も当然いて。
でも、じゃあ学校でずっと勉強だけしているのがよいかというとそうではなくて。そういうイベント(いわゆる「ハレの日」ですね)があることで、気分転換にもなれば、集団への帰属感や親近感が発生するので、「面倒」ではあっても、集団の中で役に立っている部分もあるわけです。言ってみれば修学旅行も、「祭り」みたいなものだと思うんですよ。
非常に具体的な例をお話すると、ブログ主自身はぴったり高校時代までの間は土曜日まで学校に行っていて、大学から週休2日(土日休み)になりました(なお週休2日自体は1992年から開始されていますが、段階的に導入されて、完全導入は2002年です)。
ですので私出身高校においては、私の学年にとって関係ないことだったのですが、なぜか確か当時の担任が次のような話をしたんです。すなわち「来年から週休2日ということで、その分学校での授業数が減ることになる。その分、授業を詰め込むか、なにかのイヴェントをつぶすことになるけれど、うちは、定期試験数を減らすことにした」と。ちなみに出身高校は京大とかへの進学者を出している一応進学校と言われるところでしたので、「まじか!」とは思いました(苦笑)。我々の学年には関係ないことでしたが(^^)。
反面、一応それまで進学校といわれていて、教科によってはすでに詰め込みでしたし、これ以上の詰め込みとかはできないと判断したんだろうなとも思いました。その上で、イヴェントを潰そうといわないのがうちの学校らしいなぁとも思ったんですね(文化祭なんかは有名でしたので)。
ただ、前置きしました通り、ブログ主自身が卒業してから週休2日になりましたので、実際にその宣言通りになったのかとか、それによる学生の負担あるいは学校のポリシーとして成り立つことができたのかなどの詳細は不明です。きっと色々それなりの紆余曲折(先生にとっても、学生にとっても)はあっただろうとは思います。
でも、学校という3年間の日常の中で、ある意味強制的に息抜きをしたり、思い出を作ったり、帰属感を強めたり、日常とは違う視点を得たりすることを考えた場合に、単純にばさっとイヴェント(祭り)を切り捨てることはしなかったんだろうなと思うのです。
反面これが一般的なお祭りになると、当然金銭的な問題も出てくれば、社会的・宗教的・人員的などの色々な問題がでてくるわけで。「伝統だから続けたら?」「続けてほしい」というのは簡単ですが、それを担う立場からするとなかなか厄介なことを言われているのと同じな場合もあるんですよね。
TV番組を見ていると、東京(あるいは関東全域を含むのか?)におけるお祭り関係の組合みたいな互助会みたいなのがあるようで、それによって例えば人員的な問題の解消がなされているようですが、それは東京あるいは関東全域の人口があってこそできる話な気がするんです(また、全体的な面積も狭く、公共交通機関もあり、あちこち行き来もしやすい)。
勿論これに「人件費」を付ければ「お仕事」として人を賄うことができるかもしれませんが、そのお金を過疎化した地域が出すというのは相当難しい。人件費に関わらず、例えば神輿などの物品の保存・管理・修復・新規作成などに関しても、お金が動く反面、それを支えるのが「年金制度」と同じ少ない人数で支えることになるとしんどい状態になるのね…。
そのしんどい状態を、「伝統だから続けたい」という人(自主的に続けている人)と、「しんどいからやめたい」という人(強制されているから、あるいは無言の圧力があるから続けている人)がいて。仮に「やめる」ことができても、過疎化している地域の場合、地域の人付き合いがあるので、結果論としてぎすぎすしないかどうかの問題もでてきちゃう。
せめてお祭りを実施することによって、観光客とかが来て、お金を落として言ってくれて、プラマイゼロになるならいざ知らず。特に新型の病が出てきた段階で、観光ができなくなった日々が出てきたことで、こういうお祭り存続問題が浮き彫りになった部分もあるようで(実際新型以降になくまったお祭りもゼロじゃないようですので)。
なんていうんでしょうね。結局のところ、特にお祭りを主催する人(運営し、労を重ね、お金を出費し、気もつかうような人)たちがおおよそ皆さん幸せ、楽しいというようなプラスの状態じゃないとお祭りを存続してくれとは、外野は言いにくい気がする。だってその苦労も責任も背負っていないから。
お祭り自体の起源とかも色々個別であるでしょうけど、日本でも普通にかつてはあった春のお祭りとか秋のお祭りとかは、「寒くて暗い冬から春が!」っていう喜びや、「いっぱい米が採れた!」という収穫の喜びの気持ちがあるからこそのものでは?と推察したりして。そういう祭りの苦労も、そういうもともとの楽しいとか嬉しいがあるから(あるいは祭りをやることで楽しいや嬉しいが得られることが分かっているから)やるんであって、実施するご本人たちがしんどいだけのものに対して、なかなか難しいなと思ったりします。
勿論、過疎地のお祭りを担っている方々が、皆お祭りを辞めたいと思っているわけでもなくて。中には「あの祭りがなくなるなら、もう(過疎化して不便になった)この土地に住む意味はないから、(便利な場所に)引っ越す」と、お祭りに誇りを持っていらっしゃる方も少なからずいらっしゃるそう。
残す、残さないもそうですし、残すとしたらどう残すと誰しもが納得できるしあわせな形になるのかと思いますし。全てのケースに対してすべて同じに対応できる話ではないはずですので、必要な時間をかけて、担う方たちや地域の人同士で十分な話し合いなどを重ねながら、納得できる道を探っていく形になるのでしょうね。
なんていうのかしら、ハロウィンとか、別段頼んでもいないのに若者が自主的に頑張るじゃないですか(苦笑。同時にゴミ問題や騒音問題などもでるわけですが)。なんかそういう巻き込みができるといいんでしょうけどね。
というわけで結論がある話じゃなくて申し訳ないですが、こんなところで。最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
※ちなみに、アイキャッチの写真はブログ主の手持ちの写真ですが「過疎地の祭り」でも「無くなりそうな祭り」でもありません
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