タイトルに関しては勿論「読むものによる」というのが前提です。
例えばHow to本(あるいは説明書など)の場合であれば、その本の中身を信用することが大事でしょう。
しかしこういうブログ含め学術的な話の本に関しては読み方を変えられるか否かが「学び」においては重要じゃかもしれないなと考えます。
特に今回は現役で大学生をしている方なんかにお話したいことですが、ブログ主が大学で教員をしている際、非常に面白い現象がありました。これは特定の学生に見られることではなく、少なくともブログ主が教員をしていた数年の間に見た学生の間で起こっていたことですので、「学生あるある」なのかもしれません。逆をいいますと、同じものを見ている教員からすると、「あちゃー…」ということなのですが…。
大学生が必死で「何かを読む」ということが発生するのは、おそらくレポートあるいは卒論の時くらいかと思います。
特に卒論の時期になると、否が応でも何かを読まないわけにはいかず。少なくとも卒論のテーマ探し、あるいは「どの程度かけば卒業できるのか」の確認などのために、過去のゼミ生の卒論の論文を読む学生が増えます。
で、非常にこれが興味深いのですが、「過去のゼミ生の論文の内容を素直に信じる」という事態が出てきます。かつ、さらに非常に興味深いのが、その卒論の執筆に関わった教員が「その卒論はこういうところが実は変なんだよ」と説明しても、教員の話には耳を傾けず、「先輩の執筆内容を過信する」ということがおおよそ9割の学生で発生します(これはブログ主が教員をしていた中で、実際に見てきた学生での実際の割合です。残り1割は「この論文のこの部分がおかしいので、これについて再研究したい」と言ってきたので省いています)。
教員の説明よりも、「過去の卒業生の執筆内容」を信じる、ということが違うゼミ内でも、違う学年でも生じるんですね。
反面、実は卒論を書き終え、卒論発表をし終えた頃の学生(つまり卒業間近の4年生ですね)に、「もし、自分の論文を下級生が『この人の論文は絶対正しいのだから、信じる!』と過信して読んだらどう思いますか?」と聞くと、「えっ!それは困る!やめてほしい!疑ってほしい!そこまで信用してもらえる自信ない!ていうか、読まないで!」という回答が出てきます(^^;)。
論文を書く以前と書いた後でここまで認識が違うというのも面白いなぁと思います。
私が言いたいことは何かといいますと、学びや研究のために必要な読み方(つまりレポートや卒論を書く上で必要な読み方)として、「疑って読む」というのがあります。
これは過去のゼミの卒業生の卒論に関わらず、いかなる文献を読む際にも必要な読み方です。
この業界でこの人の名を知らないなんてありえない!というような著名な方がいらっしゃり、幸いにして私は数度お話したことがあるのですが(ですので私は一方的に存じ上げていますが、あまりに著名な方ですので、その方は私を覚えているわけがない)、その方のご著書の中で、ご自身が「〇〇という本の中で、こういうことを書いたがそれは間違いであった」のようなことを書いていたように思います。自身で自身の著作の間違い部分を指摘しているのも興味深いなぁと思いましたが、生きる百科事典と呼ばれるようなその方でもそのような間違いをされるということは、いはんや凡人をや、だったり。
あるいは読んでいる本がいつ書かれた本なのか、など、古い情報を相手にしている場合もあります。
実際、ブログ主は大学の授業で、「これこれこれ(各ものの名前)について、最低3冊本を読んで調べておいで」と宿題を出して、そのレポートを提出してもらったことがありましたが、その複数の名(物体の名前)に関する記述が、本によって全く相違する説明がされていることを学生に調べてきてもらったんですね。ひどい場合だと「固い⇔柔らかい」くらいの相対する説明が同じ名詞に対してなされていて、「これではどういう物質なのか、さっぱり理解できない」ということが学生の中でも問題となりました。
教員が学生に「何かを調べるときには必ず複数の本を読め」というのはこういうことです。複数の本を読んで初めて何が正しいかの確認をすることができるからです。もしたった1冊読んだ本を過信した場合、その本が間違った説明をしていたら、結局自分が調べたことが誤りだったということで終わってしまうからです。書いているのが人間である限り、どんなに編集者がついて校正専門家などがついて出版されていても時代背景などによる間違い、当時の間違った理解などがあればそれは間違いとわからないままに間違ったまま出版されます(単純に当時も間違いであってもそれに気づかず出版されることもあります)。
ましてや誰が書いているのかわからない、何を参照しているのかすらわからないこういうブログが書いている学術的内容を信用してレポートや論文を書くのはおろかの極みです。どうして疑わないのか?どうして「学生にとって有利なもの」を書いていると思うのか?
「けけけ。こういうブログを信じて、レポートなり論文を書いて、落第になればいい」という悪意が含まれていると思わないのか?
そんなに世の中、学生に都合のいいようにできていないよ(苦笑)。
ブログなどを参照にすることは確かに悪とはいわないけれど、必ずその内容が本当に正しいのかな?と確認する必要があるんだよ。「きっかけ」をもらった!と前向きになるのはいいけど、あくまでもそれは「きっかけ」で全面的に信じるのは危ないの。
自分で学ぶとか研究する、っていうのはこういう「疑う」が前提なの。
それができていないと「自分で学ぶ」「研究する」ができたとは言えないの。
なお、留学時代になると「先生すら疑え」でした(そもそもこれは当時の常勤の先生の指導が場合によって間違っていることが発覚しまして、そのため他の学生が留年したことに起因するのですが、留学の場合「先生の指導に従ったまでです」というのが言い訳にならないんですね。「先生はこう言った。でもあなたは疑わなかったの?」というのがついてくるので。ですので、信じられるのは自分のみ。自分を信じるために徹底して調査し、裏付ける必要性を学びました)。徹底して「自分で考えただろうか?」ということが求められましたし、自分での学びや研究っていうのはそういうものかと思うのです。
過信して読むか、疑って読むか。そこに「研究であるか、否か」という部分がかかってくるんじゃないのかなぁ。
ブログなどが参照文献に入らないこと、たった1冊の本を読んでも何にもならない理由はこれでお分かりになったでしょうか。
というわけで本日はここまで。最後まで読んで下さりありがとうございます。
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