文化財保存修復のための西洋絵画の歴史:ギリシャ美術の続き①

修復を学ぶ

先の記事より、美術や絵画の発展の歴史について、ごくごく簡略的なお話ですが、書いております。直近の記事では全体的なお話としての概要と、ギリシャ美術の概要的なものをお話しました。

文化財保存修復関係なのに、なぜそんな美術史的な話を?と思うかもしれませんが、作品が制作された時代ごとの発展や特徴、社会的・精神的背景を知ることは、それぞれの作品の時代性や個々の作品の構造の理解、ひいては、作品のアイデンティティやオリジナリティへの理解にも繋がるからとご理解いただけたら幸いです。

なお、このシリーズ上ではごくごく簡略的なお話のみを書いていきますので、詳細な美術史などに関してはいろんな文献などがでておりますので、是非そちらをご参照くださいませ。

ギリシャ美術:アルカイック時代

直近の記事では、古代ギリシャ美術の中でも幾何学文様時代のお話をしましたが、当記事ではアルカイック時代から始めます。

このアルカイック時代では、この時期交易が本格化したエジプトにある大きな石造彫刻の影響を受け、ギリシャでも等身大あるいはそれ以上の大きさの男性像が彫られるようになります。この間常に美しい肉体を求めて、人体を表現しはじめます。   

とはいえ、現代の我々からみると全体的に固い印象を作品から受けることでしょう。この頃の理想的な肉体の表現というのは、いわゆる写実的な表現とイコールではないためです。

肉体はほぼ左右対称で(本来人体というのは正確に左右対称ではないのです)、表情は最大限感情を抑えた表現ながらも、口元は微笑んでいるというアルカイックスマイル。こういう人が身近にいたとしたら、さそ不自然…と思うものの、過去、つまり古代ギリシャ美術の「幾何学文様時代」などからこのアルカイック時代と見て見ると、特に彫像においてリアル感が増した感じとなります。

ギリシャ美術:クラシック期

さらにクラシック期になると、理想的なプロポーションをもつ身体とともに、象徴的かつ理想的な相貌が求められました。違う言い方をすると、ギリシャ人は肖像、つまり個人的な顔には興味を示しませんでした。

その結果、顔に関しては男女の区別さえも曖昧なものが多くありました。神々の顔は年齢に応じて表されてきましたが、それを除けば細部表現に差異を求めず、普遍的な理想の顔形を求めたのです。  

これは、ギリシャ語の「カロガカティア」(καλοκαγαθια)という言葉が人間の肉体的かつ道徳的な完全性の理想を意味するように、古代ギリシャでは、外見の美と内なる善は深く結びつくというような、美の価値に大きな重要性を与えていたことに関わります。

もっと言えば、卓越した肉体は公正さや徳の高さと一体とされていたのです(これ、逆で考えると、貧弱な肉体である場合、そこには高い徳が備わらないという逆説が成り立ちますので、ぞっとしますが…。汗)。

そこから紀元前5世紀のギリシャの彫刻家ポリュクレイトスは、多くの人間の身体の部位を測定してその平均値を割り出し、基準値を設定することで、青年の人体各部の最も美しい比例に関し数学に基づく原理を割り出した著書『カノン(規範)』を著し、かつ、当時の最も優れた彫刻家として認識がなされていました。彼が算出した値は、現実世界からの算出されたものであることが非常に興味深いです。

有名な『ドリュフォロス(槍を持つ男)』や『ディアドゥメノス(勝利の紐を頭に結ぶ男)』などはこのカノン、すなわち実際のデータに従って、製作された男性の理想像といわれています。各彫像の写真は検索してみてください(汗)。ちなみに頭部が全身の7分の1を占める体形、いわゆる7頭身をしています。 

こうした理想的なプロポーションの追及からなる、ギリシャ的調和と呼ばれる人体のプロポーションが紀元前5世紀に確立されて以後19世紀末まで、あたかもギリシャ美術が普遍的な美の基準のように「理想的な身体」のイメージとして西洋美術において延々と再生産されていくという意味で非常に重要なことと考えます。  

本日のまとめ的なもの

西洋美術史などでよくよく言われるのが、「前の時代を否定して」というような言葉です。

前の時代を受け入れて、良しとして、模倣はするものの、模倣で留まらず、新しい世界へ、というのがおそらく美術だけでなく、いろんなものに「進化」といいますか「変化」を与えるのでしょうね。

現代社会でも、色々便利なものがありますが、「現状」でよしとせず、「よりよく」と思っうことで家電でもなんでも「1年前よりさらに進化した商品」みたいなものが出てくるわけで。昭和の時代に生まれたブログ主からすると、本当に子どもの頃と変わったなぁと感心することしきりだったりするのですが。

ただ同時に美術や文化財においては、時代が進むほどに「良質になったのか」といいますと、そうではないとブログ主は個人的には思っています。近現代の作品あるいは作家さんが、クラシカルな作品にクオリティ(いろんな意味においてですよ)において太刀打ちできない事象が少なからずあるからです。

なんといいますが、昭和生まれの人間が「昭和はよい時代だったよ」と思うと同じに、平成生まれの人間が「平成が一番だよ」と思うのかもしれませんし、あるいは令和生まれの方が「今以上にいい時代はない」と思うかもしれません。こういうの、正直比較のしようがないですよね。

これと同じに、美術作品というのは時代をうつす鏡のようなもので、「当時の良い」を反映していたり(ですので、時代が変化すると価値観などが変化するため「必ずしも良い」とは言い難い)、あるいは「当時できる最大限のこと」をしているなど、「当時」というものが非常に反映するのだと思います。

こういう背景などがわかると、作品というのは見え方が変わったりすることもあるので、当記事などで美術史はじめ歴史的なことなどにご興味を持たれることがあったりすると、嬉しく思いますし、是非色々調べてみられるとよいかと思います。

というわけで本日はここまで。最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

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