絶対的な法則ではありませんが、ある程度は法則としてなりたつかなぁと思うこととして、卒論の「謝辞」の箇所に書かれた名前が多いものほど、比較的内容がよい傾向がある、というのがあります。
こういうと、学生の浅知恵で「先輩・同級生の名を書く」という現象が多発するのですが(苦笑)、残念ながら「謝辞」には同級生の名前は書けません(修士・博士論文クラスの同級生で、「共同研究」等、【実利】としてのサポートがあって初めて書くことができると考えます。尚、先輩の名を書く場合も、【研究を左右する具体的な協力】があってこと名前が書けます)。
「謝辞」に必須で書く名前は担当教員の名前ですが、それ以外となると、研究で相談させていただいたり、ご助力いただいた学内外の「専門家」の名前を書くのがセオリーですね。ですので、「謝辞」を書く場合、具体的に「これこれの調査協力いただき、感謝いたします」のように書く必要があります。
卒業研究や卒業論文は、個人が能動的・自主的に研究するものですが、「自分一人だけでやれ!」というものではありません(ややこしいですね。汗)。よりよい研究になるよう、担当教員をはじめ、可能な限り専門家への相談は、やるべきことです(なお学内外の他の教員や専門家に相談する際は、必ず事前に担当教員に報告連絡相談しましょう)。
例えばですが、研究にある種の機材が必須であるのに、学内にそれがない場合、その機材を持つ機関に調査協力を頂くとかね(ただし外部協力を頂く場合はお金の問題もありますので、そこも注意ですね。苦笑)。
でも、正直卒論だからって急に担当教員と話せっていったって難しいかもしれませんね。「だって、普段話すことないじゃないですか」と言われると、確かにそうなのですが(苦笑)。なんていうのかな…、「普段教員と話すことがない」はそうだよねぇとは思っても、それ以前に同級生と話そうとしないとか、会話はしても人の話を聞かない(これは色々タイプがあるのですが…)という子の場合、「個」として優秀で一生懸命でも、成長に限界があるといいますか…、少なくとも一度は頭打ちを経験することになるかな、と思うのね(それはそれで、頭打ち直後はしんどい状態でしょうが、それを糧に成長ができれば、悪いことでもないとも思っています)。
なぜならIQぶっ飛んでる天才はどうかはわからないけれど、一般的な人間の場合、一人で考えつくこと、経験できること、理解できることなんて限られているからです。よく「三人寄れば文殊の知恵」と言われますが、ある意味においてはこれはとても正しいのです。いかなる人間も全く同一の経験や感情を持っているわけではありませんし、一つのものを見ていても、同じことを考えているわけでも同じ価値観を持つわけでもないからです(例えば同一の事象を親子で経験しても、親の立場と子供の立場で思うことは違うはずです)。だからこそ、人と関わること、会話することで人は自分だけでは獲得できない広い視野を得ることができるのだと思いますし、特に「研究」のような「俯瞰的視野」が求められる作業において、初めての研究の場合は特に「個」で頑張るには限界があります。
これは「謝辞」に書けるようなサポートを得る、という意味でもそうですが、卒論のテーマのアイディアなどが、意外と友達との会話、リラックスしている時に何気なく他者が発した言葉などから得られることがあるからです。自分にとって当たり前と思っていたことが当たり前ではなかったり(これは特に他ゼミ、他専攻の学生と話しているとよく気づくことです)、自分と他人の考えのずれのようなものに気づいたり、論文のテーマは、意外とそういう小さなところに潜んでいることもあります。
話をちょっと戻して、勿論例外はあるのですが「教員と話すことなんて」というタイプの子は、同級生とも話していない傾向がある気がしています。勿論全然会話をしていないわけではないですよ。でも「いつもつるむ子としか話さない」「自分からは話さない」「むしろ沈黙でいられるなら沈黙で」というタイプの学生さんの場合、当然実質的な経験値が少なくなります。同級生に対してこういう感じだと、よりハードルの高い教員に対して「話そう!」となるわけがないんですよね(苦笑)。
ほか、先に「例外がある」と書きましたが、普段かしましいくらいに同級生と話していても「教員と話すことなんて」というタイプもいます。これは先の「三人寄れば文殊の知恵」と真逆の「集団浅慮(グループシンク)」タイプの学生の場合です。このタイプの場合、集団(同じ同級生の仲間同士)の中に「自分たちは絶対大丈夫(あるいは教員に頼らずとも自分たちでできるもん)」という楽観的幻想があって、これに対して異議を唱えるものはたとえ教員などのような心配してる立場からの警告であっても無視をするということが発生します(最近の学生さんは表面的には話を聞いているふうでありながら、実はそうではないという方が少なくはありません。ニコニコした顔で、「耳を貸さない」だけの話ですから)。
他人と会話をしない、あるいは全く同じ思想だけの集団で他者からの警告を嫌う(嫌うとはいわずとも、全く耳にいれていない状態)というのは、非常に視野が狭くなります(視野が俯瞰的ではない)。言ってみれば「自分の考えが絶対的に正しい」あるいは「自分しか頼れない」状態で突き進む状態になりますので、なんらかの問題が発生していても気づけなくなります(いえ、教員が警告をしているはずなんですけどね…)。
こういう思考・行動の何が怖いかというと、「疑いの余地が挟めない」のが怖いのです。
研究は、どんなに入念に準備し、計画しても失敗はつきもの。むしろ失敗による気づきで改善ができたり、前進ができるわけで、研究で失敗がない、ということのほうがありえないと考えています。だからこそ、その失敗に早期に気づけるか、ということが大事なのですが、妄信・過信、過剰なほどに楽観視をしていると外野(教員など)の意見が聞けなくなっているので、適正な研究進行が困難になります。
研究においては「失敗」が絶対的に悪いことではなく、研究結果として「失敗」を語るしかなかったという場合も存在します(なぜなら本来研究というのは、長い年月をかけてするもので、この「失敗」は「途中経過」でしかないからです)。反面、過信・妄信状態だと、「何が失敗か」「どうして失敗か」「どう改善すべきだったか」ということにも気づけないということも発生します。怖いのはこの「気づけない」ということです。状態としては「裸の王さま」状態になってしまいます。つまり教員だけでなく、本人以外の学生が「うわぁ…」と思う論文を提出し、そういう内容の研究発表をせざるを得なくなってしまいます…。
ただ、注意点を一つ言いますと、「コミュニケ―ションがとれる」というのは「教員からの上意下達を求める」というのとは違います。また、自分の考えを力技で押し通すというのも違います。
それはおおよそどの大学の「卒論指導」に関する「シラバス」を見てもみつかる「討議」という言葉を考えると、きっとよいでしょう。教員の言うこと一方的にきくことは「楽」でしょうが、コミュニケーションではありません。学生同士、あるいはそれに教員を含めて「卒論に関し、意見を述べあうこと」が「討議」です。その結果「誰の意見をとる」とかではなく、討議の結果として「最良」を「考える」ことが大事です。「討議」はゼミの中で行われるのですが、自分の研究に関し色々他者(他の学生)にも考えてもらうのですから、他者(他の同級生)の研究に関しても積極的に意見を述べたり質問したりすることは礼儀として大事なこととなります。
ゼミの中であろうと、外であろうと、同級生なり先輩なり、担当教員でもなんでも、意見を取り入れられる(勿論判断は研究する本人がするのですが)という人は、卒論に限らずお仕事をする上でも有利だなぁと思います。
というわけで本日はここまで。最後まで読んで下さりありがとうございます。
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