ここ連日、絵画(主に油彩画・テンペラ画)の構造についてお話しておりますが、ようやっと最後の層、ワニス層までやってきました。
(とはいえ、本来絵画、特に油絵は額装されているので額の調査も含めるのですが、今回はとりあえず「作品」の構造を簡単に(あくまでもこれでも簡単に)理解するための回ですので、額縁は含めません。あしからず…)
ではワニス層ってどんな層?というのを見ていきましょう(^^)。
ワニス層ってどんな層?
ここまで連綿と下層から、基底材、下膠、下地層、断絶層、下絵、絵画層と説明してきた最後の層がワニス層です。別名「保護層」。これは伝統的な油彩画においては一般的な層ですが、実のところ近現代の、特に日本の油絵画家さんの作品にはあまり見られない層です。
この層は、「保護層」という別名から想像できると思いますが、絵画層などを守るための保護的・保存的意味合いと、作品、特に絵画層の美観のためといった美観的意味合いから塗布されます。
美観的意味合いとはなんぞやといいますと、主に画面の光沢の統一です。これに対して保存的意味とは、外気汚染、ガス、害虫、あるいは絵画側からの温湿度の変化などから絵画層を守ることを目的とします。
こういう理由、特に作品を保護しなくちゃ~なんて思うと、多量に分厚く塗りたくなりますが、実際は絵画層表面に均一かつ可能な限り薄く塗布することが大事です。結構こういう点も何度も大学時代に学生に説明するのですが、思いの他ご理解していただけないといいますか、「保護しなくちゃ~」精神が強いのか、微妙なところです(^^;)。どうやったら伝わりやすいかな??と考える点ですね。
なぜワニスはできる限り薄く塗布するかの理由について、ぱっと思い浮かぶものは4つ(他にもあったらすいません、とりあえず何も考えずにでてきたものだけ。汗)。
- 美観への介入が発生する場合があるから
- ワニス乾燥時に絵画層の破壊原因になる危険性がゼロではないから
- ワニス経年後、変色の度合が酷くなり、作品の鑑賞を妨げる要素となりえるから
- ワニス経年後、修復時に塗布したワニスを除去する必要性が出た際に、「可逆が容易」とは言いにくい場合ともなるため
上記の各詳細はまた別の機会にでも書ければと思っていますが、ワニスを塗布したすぐから、ワニスを除去する際に至るまで、ワニスが厚いとよいことはありません(汗)。ですので、あくまでも必要最低限の厚みでの塗布がよいですね(^^;)。
また近現代、特に絵画保存修復においてはですが(ですので制作側の意図とは別ですが)、可逆が容易で透明かつ、経年酸化などによる変色のしにくいものが適正とされます。しかしながら、これらの条件全てを満たすワニスは存在しませんので(絵具の条件と同じに、1つの素材で絵具の3条件を満たすにワニスはない、ということです)素材を選んだり、塗り方を変えたりと色々工夫が求められます。
絵画保存修復におけるワニス層というややこしい部分
作品調査を実施する際に、ワニス層についてはまず「ワニス層があるか、ないか」というところから調査を始めます。ここまでにおいては、「絶縁層」以外は「あって当たり前」であるのに対し、先ほど申し上げたとおり、古典絵画ではワニスは当たり前であるにも関わらず、近現代絵画においては必ずしもワニスは塗布されていないことが前提だからです。
これも絵画史などを勉強すると理由がわかります。そして決して喜ばしいことではないこともご理解いただけるのですが、こういうお話をするとまた長くなりますので、後日に…。
閑話休題。さて、作品本体にワニスがなかった場合、果たして保存修復において作品にワニスを塗布することは可能でしょうか?
結構これは大きな問題だったりします。指標がいろいろあるので、ひとことで判定しにくい問題ですが、日本でも海外でも一応大学機関という場所で学んだ身としては、国によって考えが大きく違うというのも、判定を難しくしていたりします。
「保護層」という限り、作品の保護のために塗布することが望ましいと思うのは誰しもが思うところ。しかし、ヨーロッパの考え方の一つとしては(逆をいうとこれは日本の大学での考え方ではないかもしれませんが)「オリジナルの作品にワニスが塗布されていない場合は、修復においてもおおよそワニスは塗布しない」が前提だったりします(おおよそは、なので、場合によっては塗布することもあります)。でも私が日本で学生だった際は、「保護層なしで作品を保護するなんて」的な考えでしたので、「オリジナルにおけるワニスの有無」を天秤に載せることがまずありませんでした。
これはなぜかといいますと、ヨーロッパのほうでは「保護的意味合い」だけでなく「美観的意味合い」および「オリジナリティ」を意識しているからです(あ。日本のほうでも「美観的意味合い」は考えているので、そこはご理解ください。そうではなくて、あまり日本の大学で「オリジナルか否か」については、時間の関係上もあったかとは思いますがそういう話はしなかったという想い出があります)。「オリジナル(画家の意志)」ではないものを加えることに関しては、海外においてはすごーく会議を重ねます。処置に対し「なぜ必要か」「なぜ不必要か」ということを明確にして、より作品にとってメリットがあるよう考えるんですね。ちゃんとした機関であると、修復する人間だけでなく、美術史家とか化学の専門家とかによるいろんな視点での話し合いになるので、修復家というのはこういう専門家の話が理解できる人でなければならない、ということを実感したりします。
こういったパターンの他、作品自体「ワニスを塗布できない」というものも存在します。もっとはっきり言ってしまえば、「ワニスを塗布することはできる。でも、安全に可逆することは不可能である」という作品です。こういうものに対しては少なくとも現時点でワニスを塗布することは、作品の破壊につながってしまうために、塗布することはできませんね…。
ここまで「作品にワニスを塗布する」話をしていますが、それ以上にややこしいのは、「作品にオリジナルのワニスが塗布されている場合」です。
先ほど、「ワニスがあるかないか」をワニス層の調査において調べるといいましたが、もし「ワニスがある」であれば、今度は「ワニスがオリジナル(画家の手による、あるいは画家の意志による)か、非オリジナル(画家の手によらない、あるいは画家の意志とは異なる)か」ということを確認しなければなりません。
画家に依る、依らないとか、そんなもんわかるもんか!と思いますね(^^;)。結構これは難しい問題ですので、断定といいますか、「おそらくそうだろう」と言えるまでに結構調査が必要になります。ただ、通常ワニス層というのは経年とともに変色するものですので、一般的には「塗りなおし」をするものです。ですので、古い絵画であるほど、「オリジナル」は残っていなかったりします(絶対ではありませんよ)。逆に時代が近い場合(19世紀含む)などは、長く修復などがなされておらず、オリジナルのワニスが残っていることもありますので、慎重な判断を要します。
で、なぜ「本人に依る、依らない」がこれだけ重要かといいますと、保存修復家は「オリジナルに手が出せない(ワニスがオリジナルであれば、それを除去することはNGである)」という基本的原則があるからです。同時に、「画家の意志どおりではない」「作品の美観への損失」というのは、作品の価値の低下となるので、非常に判断が難しいところになるのです。果たして「画家の手によるワニスはオリジナルであるため遺さなければならない」なのか、あるいは「ワニスが経年して画面が見えなくなっているのは作品の美観に対する損害だ」とするか。
実のところ、二者択一の話でもないのですが、、そういった「判断」の難しさとともに、そういった難しい状況に対して「どう対処するのか」といった処置を考える・判断する必要性があるわけでです。
ですのでワニス層の取り扱いというのは、多分100人修復家がいたら100人みんながものすごく悩んで、その判断に関しては結構異なる可能性をはらむ部分だと推察しています(勿論全ての保存修復関係者が「作品にとり最善」というのを考えている上で、です)。
本日のまとめとして
ワニス層に対して、「判断が難しい部分」と書きましたが、これ、どの作品でも同じではありませんし、作品によっては他の層がややこしいとか、いろんなことがありますので、おおよそねということでご理解ください。
ただ、こういうお話をすることで、「あー作品壊れてるなー。手を入れてやれ」って修復家が手を入れているわけではないこと。
そして、修復家によって考え方が違うこともあるよってことをご理解いただけたらなと思っています。何度もいいますとおり、どの修復家の方も「作品のことを考えて」であることは前提ですよ。
だからこそなのですが、結構どんな人にでもあるあるではあるのですけど、「最初に見たものを正しいと無条件で思う」のは危険で(大学でのあるあるですと、最初に出会った先生Aが言ったことが正しく、後任の先生Bの言うことは信じないとか。苦笑)。人を疑え、というのではなく、「なぜそういったのか」「なぜその判断をしたのか、その基準はなにか」とか、そういう「なぜ(why)」の部分を見ると、「なんで先生によっていうことが違うんだ~!」って悩む状態に入らず、「A先生はこういう基準、B先生はこういう基準の話をしているのか」という理解に至れるかなと思います(あるいは、「なぜ先生はそう判断されるのですか?」みたいな会話をしてみると相互理解に繋がっていいと思うのです ^^)。
ブログ主は保存修復に関する学校も日本の国立のところと海外の王立の両方行きましたし、日本の研究機関関係とも海外の文化財保存修復の国際機関とも関わりがありましたので、「自分はこういう立ち位置で、だからこう考えているんだー!」というのが本当に全然違うというのを実体験していることから、こういうお話をちょっとしています。ただ、こういう違う視点がある中で、会話をするからこそ、自分だけの視点だけでなく、自分になかった視点をもってしてより作品にとりよい道を選択できるのだと思いますし、そう言う意味で「自分の立ち位置(考えの基準)」があることと、その上で他者と会話ができることって大事だと思うんですよね(勿論自身の考えが「誤っている」という起点で考えているのではなく、正しいものであっても、より「適正」を求める場合にいろんな視点はほしいですから)。
特に大学とか大学院にいっている学生さんがもしこれを読んでいらっしゃったら、是非できる限りいろんな方と意見交換をしてほしい。先生というプロの視点に触れられること、異なる経験をもつ同級生の意見が聞けること、大きい大学であるほど、異なる専門の先生の専門的な視点からの話が聞けること、そんな贅沢な経験ができるのは、学校にいるうちですから(^^)。大学って、そういう本当に贅沢な場所なんですよ…。ブログ主自身、大学教員をしていた際は、質問をしてもらえたほうが嬉しかったです。先生のご迷惑になる…とか、そういうことは置いておいて(迷惑である、忙しいという時は、先生が判断してちゃんとそれはおっしゃると思いますし、それは単にタイミングが悪かったということで、学生さんの皆さんを怒るとか恨むとかないですから。汗)是非是非、先生を怖がらずに話してみてみるとよいですよ~。
ということで、本日も最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
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