【雑記】朗読者 Der Vorleser:ベルンハルト・シュリンク著 Bernhard Schlink、松永美穂訳

雑記

今までブログ主は「本は本屋で」という人間でした。

というのはそれまで住んでいたエリアあるいは仕事をしていたエリア、もしくはよく遊びにいくエリアに必ず本屋があったからです。

しかし少なくとも現在住んでいる場所の近くには本屋さんがありません。あるいはようやく行けた本屋さんをじっくり吟味してる時間もない状態で「何か本が読みたい」という際に、やはりネットに頼ってしまいます…。

本屋さんの場合は、目的をもって探すこともあれば、本屋さんのお勧めを買う場合もありますし、たまたま本当に偶然出会った本を買うこともあります。

それに対してネットでの本の出会いは、「どうしてこの本と結びついたのか…?」という記憶が非常に曖昧な気がします。

表題の本もそうです。気がついたら購入していた、というブログ主としては珍しい本です。知っていた作家でもない。特に何か書評などを読んだわけでもない。不思議な出会いでした。

最近、というほど最近でもないけれど「思いもしないどんでん返し」という煽り文句のようなのがついている本がよく出ていますが(そしてベストセラーとなっていたりしますが)、年齢のせいなのか「驚かそう!」みたいな目的のために書かれた本には、個人的になんとなくがっかりしてしまう…。

でもこの「朗読者」は非常に静かな内容で、でも、「ああ、そうだったのか」という欠けていたパズルのピースが埋まることでガラリと今まで読んできた内容の様相が変わる、万華鏡のような作品かと思います。

そしてただ「衝撃」があるだけでなく、内容が「ドイツ」「戦争」「ナチズム」と重いワードが下敷きになっているので、読後は勿論、読んでいる最中も色々なことを考えて読んでしまう本ですし、この考える内容というのもきっと読者の年齢や経験、国籍などの状況によって色々変わるのではないかと思うのも、やはり万華鏡的だと思うのです。

また、あくまでも二読したおばさんの個人的な読後の感想ではあるのですが、この本の内容は、「ドイツ」だから、「戦争」がかかわるから、「ナチズム」という特異性があるからという話ではないとも思うんですよね。

この世には「たられば」はないのですが、もし「十分な教育があったら」とか、もし「貧しい生活でなければ」とか、そういうことを考えることって現代でもあると思うんですよ。

あるいは結局のところ、人は他人にせよ何かにせよ、自分にとって都合のよい部分しか見ようとしないので、本当に他者を、あるいは自分自身すらも正当に理解することって不可能なほどに難しいよなと思うのです。

特に自分にとっての常識と「対象」の常識が違うなどの場合、「どちらも間違っていない」のだから途方に暮れてしまう…。恵まれている者の常識が貧しき者を苦しめることもあれば、貧しき者のその「持たざる」ことからくる被害者意識が、ただ「持てる者」であっただけのものを責めることもあるかもしれない。

現代においては「持つ」「持たない」などは、お金や経験などに限らず、「情報」なんかもそうで。「情報弱者」という言葉があるほどだったりします。こういう「情報」一つで人一人の人生が大きく変わることもこの世にはあったりして。そういう「たられば」は仮定に過ぎず、現実にはないことだけれども、それでもこの物語の中でもそういった「たられば」をついつい考えてしまったりしてしまいます。

結局のところ、世の中のいろんな齟齬(小さな人間関係の不和から戦争などまで)は、対象(人でも物でも事象でも)への理解の不十分さからくるのではないかとか。世の中に自分と全く同じものや人や事象がないからこそ、齟齬がないように理解を深める努力をすることが愛なのか、あるいは愛があるからそこに力を注げるのか、もしくは相違や齟齬を許すことが愛なのかなどと色々考えてしまいます。

なんていうんでしょうね。ネタバレさせたくないので、ぼかしながら書くと本当にわけのわからない文章にしかならないなぁとびっくりするのですが(汗)、こう、なかなか考えていることを一つにまとめるには難しい本だなぁというのが感想だったりします。

だからこそですが、是非ご興味のある方に読んでみてほしいですね。というわけで本日はここまで。最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

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