【雑記】優秀すぎる人の伝記は時に劇薬:東海林さだおの「ショージ君の青春記」

雑記

ブログ主が高校生から大学生の間、特に自分が行き詰まったと思った時に愛読書として読んでいた一冊。

現在紙の本だと中古本しかないんですねー。古本屋に出さなくてよかったーと思うブログ主です(笑)。

実際ブログ主自身もそうだったと過去を振り返っても思いますし、また大学で教鞭をとっていた頃に出会った学生たちもそうだったのですが、若い頃って過敏な部分がありますよね。

特に、ブログ主が教員時代に出会った学生たちなどは、自分が学生の頃と比べて精神的にタフとは言いにくい子が多かった。嫌味とかでもなんでもなく、ブログ主が子供の頃というのは本当に野生といいますか、雑草のような部分がなくはなかったように思うのですが、今の子育てというのは本当に子どもを大事にしているようで、ある種ハウス栽培的なのかな。子供が転ばないように、痛い目をみないようにといろんなものを「排除」した結果として、「失敗」などが「生きるか死ぬか」みたいな大事と捉えている学生さんが多くなっちゃっている気がしてなりません…。

で、世代全体的には「失敗しないように」と心がけて生きている風なのですが、それゆえに「失敗しない道」というどう探しても見つからないものを探そうとする学生さんが増えた気がするんですね。あるいはですが、「自分が失敗しないようにしてきたのに、失敗しそう(あるいは失敗した)」と認識した時に、他人に責任を押し付ける学生さんが増えた気がします。自分が傷つきたくないんですね…。とか、自分が「出来ない人」とは思われたくないんですね…。

そのせいなんですかね。自分のやりたいことがわからない、という学生さんも増えました。やりたいことは「失敗しないこと」「自分が人にばかにされないこと」「(最小限の労力で)できる人だと思われること」であって、自分の興味をいうものを持たない学生さんというのが増えた気がします。その根底というのは、結局自分への自信のなさなのかなぁ。

なんていうのか…、そういう生き方でも本人が幸せならいいのです。でも、実際、いかなる人間でもそういう生き方で「幸せ」とはならないんですよね。とりわけ優秀なタイプ、子供のころから大人の顔色を見てきただろうタイプの学生は、自分で気づかないうちに心理的な落とし穴に落ちていることが多い気がします。そして、その穴の大きさが思いのほか大きく、深いために、身動きが取れなくなってしまう。

こういう優秀で優しいタイプの学生さんは、小さい頃からおそらく親の手がかからない、「よいこ」だったのだと思うのです。あるいは「よいこ」を存在価値にするどころか、「よいこ」の状態が生存する上での基本状態で、一般的価値観でいえば、プラス評価として捉えられることが、よいこ自身にとっては「よいこ状態」で「価値状態ゼロ(息をしているのと同等に当たり前)」と本人が評価しているように推察しています。

誤解してほしくないのは、「よいこ」が悪いということではないのです。人は機械ではないので、というか機械であっても調子のよいとき悪いときというのはあるもので、辛いなぁとかしんどいなぁとか、何もしたくないなぁとか、眠っていたいなぁとか、どんな人でもそんな時ってあると思うんですよ。そういう調子悪いなぁって時って、どうしても「よいこ」ではいられないじゃないですか。「心配」をかけてしまうかもですし、「手間」をかけさせてしまうかもですし、そのことで自分自身が「役に立たない」ということを感じる人もいるかもですね。

でも、優秀で優しい「よいこ」な方は、「よいこ(役に立つ自分)」な状態がプラマイゼロ状態なので、このプラマイがマイナスになることが通常よりも怖いのかもしれません。だからこそ、とくに精神的に落ちてしまったときに、自分で自分に鞭を打ちがちになってしまう気がするのです。肉体的な問題なら目に見えたり、ダメな状態や回復状態が分かるのでそこまでではないのですが、心や精神は見えないので、自分を自分で貶めてしまう。

でも、そうやって「なんて自分はダメなんだ」と思っている中で、振り返ってほしいのですが、そう責めているのは「自分自身」じゃないですか?と。少なくとも、他の誰かが「ああ、役に立たない」とか「ほんと、ダメ」とか言いましたか?だいたいは、「そういう時もあるよね」とか「休むべきときなんだよ」とか、いいませんか?

何が言いたいかといいますと、優秀な人や優しい人というのは、自分にだけは厳しいことが多いのね(苦笑)。誰も365日24時間機能する、サイボーグなんて望んでいないし、そんなものサイボーグでも可能じゃないのに、こういう人は「自分はそれができて当たり前」と思ってる。こういう人に声を大にして言いたいのですが、365日、だらけずにいられる人なんて、当たり前じゃないんだー!

で、そんな人にすんばらしい人の伝記なんて必要ないといいますか、逆に毒だなぁと思っていまして。「ほら、これだけ頑張るのが当たり前じゃないですか!」とか言っちゃうのでね(苦笑)。むしろ多少いい加減な大人が側にいたらなぁと思うわけです(^^;)。子供から見たら、親も教師も、きっちりした人じゃないですか、一般的には。いや、勿論、ブログ主が学生していたころは、「なんでこんなやつが教員…?」みたいな大人は掃いて捨てるほどいましたが。

一見すごそうな人も、結局一人の人間なんだ、弱い部分も持っているし、ダメな部分もあるって当然なんだってことを見ることが、こういう「常に大丈夫であろう」とする人を少しは気楽にさせるのではないだろうか…と思ったりするんですよ。逆に清廉潔癖な状態で365日24時間生活している人のほうが、ほんとに現世の人間?って疑いが出るじゃないですか(^^;)。

こういう「なんで自分はこうダメなんだ!」と自分を責めがちな方に読んでほしいなと思うのがこの「ショージ君の青春記」だったりします。ただ、結構古い本ですので、令和生まれの方でピンとするのかなとか、色々思いはしますが、少なくともこの本を読んで「自分はほんとダメ!」とはならないと思うんですね。ブログ主が十代とかの頃は、この本を読んで「なんて自分は面白味がない人間なんだ!」という風には自分を責めた部分もありますが…(笑)。あんまりに自分が普通で。失敗って、それなりに自分で何かを考えて、行動して、その結果なわけですから。何も失敗がないって、「自分で何も考えていないじゃん」とか「自分で行動してないじゃん」ってことだなってブログ主は思ったわけです。

つまりは「失敗」って、それなりに自分で判断した結果で、勿論痛い目を見るわけだけど、振り返るとその人の人間味になったり、成長のためのはしごになったり、その人らしさを作ってくれたりするんですよね。不思議なもので「完璧」が必ずしも愛されるわけではなくて、「その欠点があるからこそ」愛されるということもありますから。どういう場でもそうですけど、魅力のある人って、「失敗のない人」ではなくて、自分にとって楽しいだろう「何かを考えて」「何かを行動している」人だと思うのです。失敗も(リアルタイムには落ち込んでも)未来には笑い話になるから。

ブログ主が卒業を見送った学生たちもそうですが、卒業を見届けることなくブログ主が任期終了してしまった学生などの中にも、心の問題として「その後お元気ですか」と思う方が何人か心に浮かびます。自分を責めすぎず、幸せでいてくれたらと願いつつおります。

というわけで本日はこんな雑記を最後まで読んで下さりありがとうございます。

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