【雑記】破船(吉村昭):小説

雑記

昨年のクリスマスに、大学時代の友人から本が届きました。

それが表題の「破船」です。正直、ええ、ものすごく正直に、「クリスマスに贈ってくる本?!」と度肝を抜かれましたが、「こういう村がかつてあって、こういうことがそのころあった」と言われても、「そうだろうなぁ」とリアルに感じるお話でした。

刊行が1982年と、私がこの本を受け取った2022年から考えるとすでに40年経過している作品ではありますが、時代小説であることから内容としては違和感なく、また時代小説だからと格式張っているかというとそうではなく、読みやすい内容でした。

なんていうんでしょうね。特別奇抜な内容ではなく、そういう史実があったのかと納得するような話のつながりかたをするのですが、そもそもに作家の吉村昭氏は、徹底した史実調査に基づいて海を題材にした歴史小説を描く作家さんだったようですので、全くの架空の物語でもないのかもしれないなぁと思わせられる作品でした。

でも全くの架空の話ではないとすると、この小説の残酷さが際立つようにも思うんですね…。

そしてきっと、程度の大小はあれども、昔々の日本においては(あるいは昔々の諸外国においても)こういう現実(あるいはこれに類似するような現実)があったのではないかと思う次第です。

昔々においては、決して裕福ではないのに子だくさんであるのはどうしてだろうとか、昔話のおじいさんとおばあさんがどうして「こども」をほしがるんだろうとか、(今の価値観とは違うけれども)男の子をほしがる理由とか、そういった価値観の違いと社会背景との関わりとか、今も残る価値観の「基盤」みたいなものを見るような感じもする話だったと思います。

また、「個」で生きる現代では考えられないほど昔々の「ムラ」社会の在り方や、その「ムラ」というものが、「個」のほんの少しの損失(ケガによる身体の損失、老年による働けない状況など)によって簡単に潰れてしまう危険をはらんでいることを考えると、今の世の中からすると非人権的で、ひどいなと思うことでも、「どうしてそれをせざるを得なかったのか」ということを思ったときに、言葉を失ってしまいます。

同時に、これは本当に過去の話だろうかとも考えてしまいます。勿論、この小説の内容どおり、「難破船を待つ」という生活をしている日本人の村があるとは言いません。

この近年急激に世界が変わり、例えばブログ主が小学生の頃なんかは、一家に一台PCがある、なんてこともなく、ましてや電話は一家に一台の固定電話。それが今は一人一台携帯電話を持っていそうな勢いで、大学生ともなれば一人一台PCすら持っていそうな状態。

働く上で、PCなどの最低限の操作ができる必要があったり。またこういうデバイスのおかげで、身体に問題を抱える人においても、パンデミックで家から出られない世の中においても、仕事ができる可能性が少なからず増えるようにはなりました。

反面、急激な社会変化に対して、人間の根本的な価値観といいますか、歴史的に培ってきた経験に基づく危機感およびそれに対する対処のようなものというのは、それほど急速に成長しないのではないかと考えたりします。

パンデミック発生初期段階のときに、他県民(検査済み)が地元に来たからと嫌がらせをする人がいたことがニュースになったり、「自分たちと少しでも違うもの」を排除しようとするのなども、生存に関する危機感からなのかなぁと思いながら当作品を読みました。

あくまでもそれが現代において「正しい」と正当化したいわけではありません。しかしこういう考えの根本に、昔々は、「ムラ」という集団を生かすためにどうしても「弱い個」を切り離す必要性があったってことが無意識的に刻まれている部分があるのかなと思ったりしました。

こういうことをのんびり考えていられるのも、たまたま平和で便利な世の中で生活しているからであって、この国が戦争をしていたり、災害被害にあっていたり、自分や家族などが大病や大けがをしている状態であれば、正直この話を読んで「残酷」だったり「悲劇的」であるとは思わないのかもしれません。

あるいは、現代に生きる我々の生活にしても、結局のところ、手を変え品を変え、「残酷さ」や「悲劇」はオブラートに包まれた状態で、結局側にあり続けているのかもしれません。

色々考えさせられる内容でした。

この本を送ってくれた友人のミニ感想のようなものは、私の抱いたものとは異なるものだったことを考えましても、当然読む方によって、思うところは変わると思います。気になられた方は、是非読んでみてくださいませ。

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