雑記(小説):オスカー・ワイルド作『ドリアン・グレイの肖像』

雑記

本日は、絵画の保存修復とはちょっと離れて、「絵画」に関わる小説のご紹介。

オスカー・ワイルド作の「ドリアン・グレイの肖像」という小説はご存じでしょうか?

私が持っているのは岩波文庫の富士川義之訳のものですが。

簡単な要約をすると、うなるほどのお金も、周囲が賞賛するほどの美貌もある若者(男性)が、ある画家のモデルを務めるのですが、その画家の傑作ともいえる作品に描き出された「若さと美貌」を若者が見て、「自分自身はいつまでも若々しく、その代わりに年をとるのは絵のほうであってほしい」と願ってしまう。そもそもに心として強くはない若者、ふわふわした若者(かつ、別段就労、労働をせずとも豪奢な生活ができてしまう若者)が快楽と悪行に手を染めながら、同時に画家によって描かれた絵画に恐怖する、そんな作品です。

面白いのは、単純に絵画の中の自分が老いていく、というわけではないこと。よく「40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持て」と言われますが、単純に幼いころの顔がそのまんま年老いていくわけではないのは、自分自身や周囲を見渡すとお分かりになりますね(ブログ主自身も40代半ば以上なので。苦笑)。例えば長い年月、どういう表情をしてきたのか(どういう感情を持ってきたのか)でも、年を経た顔というのは変わるでしょう。もっと単純にいえば、食事の場面で、どういう風に物を噛んできたかでも、人の顔のゆがみは変わるそうです。

そういう意味では、実はお若くしてお亡くなりになった故ダイアナ妃がもし現代において生きていたらというのをAIが再現した写真がありますが(若くして亡くなった有名人が「もし今も生きていたら」。AIで作成した画像が話題 (buzzfeed.com) 2022年10月24日参照、外部リンクです。自己責任でご覧ください)、本当にこういう風に御年を取られるか否かは神のみぞ知る、ですね(^^)。

何がいいたいかといいますと、先の小説「ドリアン・グレイ」氏は、自分自身はいつまでたっても若く、賞賛されるような見た目のまま、醜悪になっていく自分の姿を「絵画の中」に見出すのです。

本来、賞賛されるほど美しい男性であるなら、ある程度年齢を重ねても、あるいはおじいちゃんになっても、素敵な男性である確率というのは高いでしょう。しかし、いわゆるな「醜形恐怖症」のように、「老いていく自分が怖い」のではなく、「誰の目から見ても醜くなっていく自分」を絵画の形で見せつけられていくという。

単純にこういう話を聞くと、「いつまでも自分自身が若いままいられるなら、いいじゃん!」とついつい思ってしまいます(笑)。美貌とは無縁の、ふつーな人であるブログ主ではありますが、寄る年波から腰は痛くなるは、目は悪くなるはで、「若さ」に関しては「あの頃はこんなに身体的に困らなかったのに…!」とたびたび思いますからね(苦笑)。

ただ、ワイルドの上手いところは、「ただ老いる姿」ではなく、「醜く老いる姿」になっていくところなんですよね。ましてや本人がもともとは周りに賞賛される美貌の持ち主であらば、生きている時に美しく醜い絵画が永続的に残ることと、自分自身が老いていき美しかった若かりしころの自分の姿が永続的に残ることと、どちらが果たして精神的に幸せなんだろうと、ごくごく一般的な顔面しか持ちえないブログ主としては、計りかねるところです(苦笑)。

実際のところ、「ドリアン・グレイ」自身の発言に、「善良であるよりも美しいほうがいいと僕が考えているのは確かですよ」というのがあるくらい、主人公は唯美主義で快楽主義なのですが、だからこそ本人は苦しみますし、いろんな問題が発生する、そんなお話ですね。

皆様であれば、自分本体はずっと若く、かわりに「醜く老いた自分の姿」が永続的に残ることがよいですか?あるいは自分自身が老いさらばえてても、「若くきれいな頃の自分の姿」が永続的に残るほうがよいですか?

作品が半永久的に遺ることを考えたとき、いろんなことを考えそうですね(^^;)。絵画のよいところは、現代のフォトショップと同じく、美化・修正できることだったりでもあるため、世に残る英雄、地位の高い人、偉い人の肖像画は、偉い人の見えるように、かっこよく・美しく見えるように、威厳があるようにと程度の差はあれ工夫はされているはずですからね…。その美しさで有名な人であるほど、美しい姿の絵画を遺したいと思うのかなと考えてしまいます。

そんな肖像画などが残る心配のない、一般ぴーぽーの身の上でよかったなぁと思う次第です。

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