『絵画の保存修復と「医療」の間の近しさ』という記事にて、絵画(文化財)の保存修復というのは、「修理」という考え方より「医療」的な考え方のほうが近しいよ、というお話を書きました。
でも、医療に近いということは、「美容整形」も医療じゃないですかという考えは、あるかもしれませんね(^^)。
それこそ、絵画なんて「見た目」が重要で、そこの改善が大事じゃないですか、と。そう思われるかもしれません。
実際絵画の保存修復に関してのご依頼として「新品同然に」というご要望をよくよく伺います。「絵画は目で楽しむのだから、見た目をなんとかしてください」こういうご要望は「美容整形的」かもしれません。
でも、美容整形においても、「できること」「できないこと」があると思うんですよ。私自身、美容含む整形外科手術はやったこともやる予定もなく、それこそ正しい知識があるわけではありませんので、あくまでもネット上での整形などの情報のみを前提にお話しする旨、先にご理解ください。
医療でも、文化財の保存修復でも「できないこと」はある
上記のように「美容整形的」に整えたいというご要望があるのに対し、大前提としては、医療および修理、文化財(絵画)の保存修復の共通事項として、「治療、施術、処置を施しても経年したもの(歳をとったもの)は、その歳のものとしてしかありえない」ということ、です。
美容整形でも、50代の人間を18歳の見た目にしたり、赤ちゃんのような肌質に蘇らせることはできません。
あるいは、80代の人間の体力(筋力など)を、10代の頃に戻すこともできません。
機能として10年走り続けた車をどんなに修理しても新品同様にはならないはず。(新品同様にするとしたら、中身も外身も総とっかえしているはずですのでそもそもにオリジナルが残っていない)
不思議と文化財(絵画)の保存修復をしていると、処置さえすれば、新品同然の見た目とかになると思っている方が多いのですが、少なくとも現代の限界として、「経年」や「老い」に対しては無力です。医療業界でも、ブログ主が関わっている文化財保存修復界隈でも、残念ながら「お年寄りをぴちぴちに」とは不可能です。
経年した作品の状態に合わせて、損傷個所に対し作品への保存的処置を施して損傷への対処や緩和を実施したり、「経年した作品の現状」に対し違和感のない、鑑賞を妨げない美観的処置を行うことはできますが、それは「新品同然」とは異なるのです。
美容整形サイボーグという異名をもつほど美容整形をしている方が、美容整形による負担(頭痛など)を話していた覚えがありますが、それは「その方が望んだ見た目に対する代償としての負担であり、ストレス」であるわけです。痛みなどがあるということは、「無理」がある、ということだと思うのです。生きている間、ずっとどこかが痛いなんて、耐えられないじゃないですか。
これは文化財においても同じで、いくら作品の周囲の人間が希望したとて、作品自体が「この状態だと痛いのよー、無理があるのよー」というような物理的な問題を抱えることは、作品の保存上あまりよろしくありません。上記の美容整形が好きな方は「自分の意志」で「自分の望む見た目」のためにですが、作品が望まないこと(一時的な見た目の復活のために、作品の存続を脅かす、作品に大きな負担をかける行為)はできないのです。
絵画の保存修復関係者が見た目問題に関わる時
では絵画の保存修復関係者は、作品の見た目問題には一切かかわれないのでしょうか。
例えば、本当は画家が「猫の絵」を描いたはずなのにあるごく小さい部分が欠損して「犬の絵」の見えるというのでは、画家の意図が伝わらないことになりますね。
あるいは、汚れなどで作品の画面全体が黄色っぽくなって、本来キレイな水色の水景が、全体的に茶緑のような色になったらいかがでしょうか。
やはり画家の意図とは違います。
こういう、作者の意図とは違う部分を、意図どおりに汲むということは我々の仕事です。
これに対し「新品同様に」というのは誰の意志でしょうか。
絵画(文化財)が物体である以上、時を経るとどうしても「時間分の何か」がつきます。
わかりやすい言葉を使って、嫌な言い方をすれば「古ぼける」かもしれませんし、好意的に言えば「アンティーク的な価値が付く」ともいえるでしょう。
こういう「アンティーク」という言葉から感じる印象で、多少「言いたいのはこんなことか…?」ということをくみ取っていただけるような気がするのですが。「美しい」というのは結構ややこしい感覚なんですよね。
アンティーク屋さんで、いい感じのテーブルを買った際、サービスでペンキとニスの塗りかえとかされちゃった際には、きっと購入したお客様はお怒りになると思うのですよ。
あるいは、TVCMに出てくる手のタレントさんの手はシミもしわもなく、キレイな形で、誰から見ても美しいですよね。でも、80歳とかのおじいさんとか、おばあさんのシミもしわもいっぱいある手なのですが、お仕事や日常作業とかでいっぱい使い込んだようなそんな手を、ものすごく美しいと思うようなこと。
時を経ただけじゃなく、精一杯生きた証拠の手だからだと思うのですが。絵画(文化財)の経年で付加される何かは、こういう「どうして経年したものが、こうも魅力をもつのか」ということこういったもので、「経年したあらゆるものに付与される何か」ではあるのですが、それに対して人は完璧かつ正確にはジャッジできないのだと思うのです(そもそもにジャッジの代表として裁判が考えられますが、裁判は個人的感情によるものではないですし、いろいろな「事実確認」と「法」の下による判断がなされます。また、世の中の全ての人が納得する裁判もなかなか存在しないでしょう。それだけジャッジというのは難しい、といことをご理解いただけたらと思います)。
閑話休題。上記のようにいうのは、「経年したあらゆるものに付与される」何かを「アンティーク」のように思う人もいれば、「古ぼけている」という人もいるためです。。
「だって私が古ぼけていると思うから!」というのは正しいジャッジじゃないんですね。もちろん多数決でもない。
作品が経年したということ自体は事実で、真実であるのは誰しもが認めること。ならば、誰からみても事実であることに基づく作品の美しさを認めることが大事ではありませんか?だって、「いつでも私は正しい!」なんてこと、ないですから。もしかしたら「その瞬間は」「その時代」は正しくても、時間を経て、価値観が変わる時がくるかもしれないですよね。
っていうのが、保存修復のお仕事の中にはあります。
こういうお話は「修復倫理」の中にある話なので、説明が難しいですね。
改めてゆっくりこういう話もできるといいですが。
とりあえず本日はここまで。最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
コメント