ニュースから:ドイツにてモネ作品にマッシュポテトが投げつけられる

雑記

以前も雑記にて取り扱いましたこのニュース。

今度はドイツからですね(参照:「私たちは破局の中に」 モネの絵にマッシュポテト 相次ぐ抗議活動 (msn.com)、 今度はモネ作品「受難」 環境活動家がポテト投げ付け ドイツ(時事通信) – Yahoo!ニュース、 今度はモネの《積みわら》。またも名画が環境活動団体の被害に(美術手帖) – Yahoo!ニュース 参照日2022年10月25日、外部リンクですので自己責任でご覧ください)。

先の雑記でもお話しましたとおり、この人たちの行動は、目的と一致していないということや、自分の意見以外への「尊重」がないことから、「もし正しいことを言っている」としても、誰かが耳を貸してくれることは難しいと今回も思っています。

同時に、結局この人たちから「人々に、世界に、世の中に、『だから、具体的にどうしてほしい』という提案がない」というのも、声高なわりには「他人任せ」で個人的に気持ち悪いところ(「石油製品の使用をやめろ」とか、「化石燃料使うな」みたいな言葉はあるけど、「やめろ」「つかうな」と禁止する何かに関する「具体的」な「こうしよう」がない、というのが「提案がない」ということね)。

世の中、誰しもが環境問題に興味がないわけじゃないですよね。今さえよければいいなんて、誰も思っていないから、いろんなことが開発されていて、化石燃料からの脱却をしようとしている部分もあるみたい。でも、どんなものでもそうだけど、一日二日でそんな大きなことは変わらない。そういうことに非専門である人間からすると変わらない日常だけど、そこを専門にしている方たちは、ほんとに毎日真剣にそういうところに向き合って改善しているんだよね…。

でもね。こういう大きなことを変えるのは確かに大変だよ。ブログ主が十代の頃、テレビのクイズ番組だったかに女性の人権関係の大学の先生とかが出ていて、「女性の人権」について色々言っていた時代だけど(さらに言えば、高校の頃の某教科の先生も女性の人権関係の先生だったなぁ)、こういう何かを変えるために大きな声をあげる人って、想像するに大変なんですよね。世の中の常ではあるのですが、「正しいこと」「正論である」ほど、人から嫌われることもある。

他の例だとバリアフリーみたいな考えとかも、急に出てきたわけではなくて、徐々に改善がなされている話ですよね。実際は長い年月の間、生活しにくい場面があったものが、最大限の人々においての生活のしやすさを考えることなんて、ブログ主が子供のころはどうだったか…と考えてしまう。

ただね、正しいこと、正義の主張だからといって、だれかや何かを傷つけてもいい、というのは違うと思う。正しいこと、正義であるからこそ、どの方向にも、どういった人にもプラスとは言わずともマイナスではないということを主張すべきなのではないでしょうか。

大多数の人が困っていること、でもなかなか変わらなくて歯がゆい思いをする毎日。そういうことに対し、誰かを傷つけることなく、でも大多数の方にとって有用性があるってことを少しずつでも理解してもらうことで、きっと物事は進んできたのだと思ってる。少しずつでも味方ができていくことで、協力ができていく、前向きに進めていくことができる、その結果として改善がなされていく。そういう形なのではないでしょうか。

そう考えたときに、何かに損害を与えてまで自分たちの意見を尊重せよ!と声高に叫ぶのは、「脅迫」ではないかと考えてみてほしいのですよね。しかも、その損害対象が、全く関係がなく、抵抗すらできないものに対してである段階で、発言者に好感は持てない。また自分の主張を受け取ってほしい人々から「あの人たちがうるさいからさぁ」「迷惑だなぁ」と思われるのは、自分たちの意図が伝わっていない証拠だとも思うんです。日本語版のニュースしかみていないですし、実際具体的に何かの提案をしているのかは知らないけれども。だからこそ、ただ「化石燃料どうのこうの」を楯にした目立ちたがりのパフォーマンスにしか見えない、という悪循環でしかなくなってしまう。

もっと言うと、じゃあ、この人たちは現在化石燃料なしの生活をしているのだろうかとの疑問がある。今回のドイツの例の場合、少なくとも着ているオレンジのジャケットは、化石燃料からなる繊維(合成繊維)からできているのではないでしょうか?あるいは歯ブラシは?車は使うの?バスには乗るの?道路は使うの?化石燃料の恩恵を一つも受けずに生活できていると思ってるの?と考えてしまう。

かつて何かの番組かyoutubeかで見た、「できるだけプラスチックを使わない」をテーマに生きている日本人夫婦の生活を思い出すのですが、夫婦の中でも特にこのテーマを重要視しているのは夫氏のほうのようで。たった2人だけの夫婦生活でも、当初喧嘩があったり、度重なる話し合いなど、異なる意見・考えの中でのすり合わせが必要だったわけです。その上で「現在の生活に落ち着く」という状況らしいのですが。それは「全くにプラスチックを使わない」ではなく、「或る程度の妥協のある生活」なわけです。お肉を買うお店は経木のあるお店で、とか、ある種の買い物には入れ物(瓶や鍋など)を持っていくとか、いろんな工夫がその番組の中で見れて。なにより、特に夫氏の妙に楽しそうな姿と、奥様の「しょうがないなぁ」感(?)の中で、「自分の生活なら、こういうことならできそうだな」とみている自分がいて。別にこの人たちは「個人的に」やっていることで、「みんなプラスチックを使うな!」という気持ちで生活をしているわけではないとお見受けしているのですが、意図せずとして「こういう生活の豊かさ・楽しさ・面白さ」というものを見せられるといいますか。そういうやり方ってあると思うんですよ。

現在ニュースになっている活動をしている方たちはしたり顔で、「食料難になれば、こんな絵画は何の価値もなさない」と言っているけれど、それがイコールとして「彼らにこれらの作品を壊すことが許される」とはならない(以前書きました記事のとおり、彼らの主張は、論理として疑問があるので「だから」「食料難と絵画の価値の関係性への疑問」をなんとかしてほしいところですが)。それはあえていうなら、「食料難の中で、老人、障碍者、非健常者は生きていても未来がないから」ということを言い出しそうな思想だと思う。あくまでも極論ですよ。でも、「絵画」と「命」の問題がイコールではない中で、あえて「命」という極論をもってくるなら、状況が変わればこの人たちは上記のことを言い出しそうだと私は思う。だって他者が大事にしているものへの「尊重」がないから。他者が大事にしているものでも「理由があれば、自分は壊してもよい」と考えているようだから。たとえ、その「理由」が破綻していようとも。

さらにいうと、「食料難うんぬん」って言いながら、攻撃素材として食料を使っているのね。それって「今は食料に困っていないから」って甘えていないかな?とか。「食料うんぬん」言っているわりに、食べ物を粗末にしている段階で、結局やっぱり「何を尊重しているの?」って言いたくなってしまう…。言いたいこととやっていることが、やっぱり一致しない気ばかりする。

主張の内容がいくら正しくても、その主張をしている本人やその行動が尊敬できなかったり、愛せるものではない場合、その主張はどうしても聞き入れられないものになる。自分たちの主張が正しいと思うなら尚更、こういうやり方ではなく、だれもが「そうだね」あるいは「私とは同意見ではないけれど、あなたの意見も、わかるよ」と言ってくれるようなところから始めていくほうがすんなりとコミュニケーションとして進むのではないでしょうか?現代においてはそれこそyoutubeでもなんでも、世界に発信できるツールがあるのですから。

被害にあっている作品は、別にブログ主の所有物でもなんでもないですけど、本当にこういうニュースは胸が痛くてしかたないです。

こういうときに時々、「きたかぜとたいよう」という童話は、真理だなぁと思いますね…。

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