この記事は全2話中の2話目です。タイトル通り、文化財保存修復とアガサ・クリスティ―のポアロシリーズのようなミステリ小説の中で見られる考え方との類似性について、あくまでも教育的でも業界共通思考でもなく、個人的見解としてお話しております旨、ご理解くださいませ(^^;)。
前回の記事で言いたかったこととしては、記事の最後に書きましたアガサ・クリスティ―のポアロシリーズにてポアロが時々いう、「一つの証拠(一人の発言)を見つけても、一気に全部を考えない」「複数の証拠、複数の証言が同じことを指した時に1歩進むことが可能となる(あるいは信用するに足る)」という発言が、思いのほか文化財保存修復における作品調査においても同じ考えだということです。
そして学生さんに限って、「1つの証拠からいきなり飛躍した発想」をしたり、「1つの証拠から決めつけた考えをしてしまう」傾向があること、そしてそれがよい兆候ではないことを書きました。
なぜか。
残念ながら作品は人間ではないので、人間にわかる言葉は語ってはくれません。でも、人間にはわからない言葉だからこそ、目を凝らし、耳を澄ますものには言葉が届くことがあります。しかしその語ってくれる言葉は断片的で音量としてとても小さい。ですので、「決めつけてしまう」と、せっかく作品が語ってくれている言葉が、あっという間に聞こえなくなってしまうのです。
あるいは、ミステリ小説あるあるですが、「証拠」が「偽の証拠」(あるいは事件そものものと関係ない証拠)である場合もありますよね。その「証拠」ゆえに「ミスリーディング」をする場合もあります。
あるいは、「一つの証拠」から本来複数のことが考えられることがありますよね。例えば、もし「J」というイニシャルのあるハンカチが落ちていたら、あなたはどのように思いますか?「ジャネット」などを始めとした「ジャ行」の名前を思い浮かばせませんか?しかし、例えばドイツ、オランダ系であれば「J」で「ヤ行」の発音をするので、もしかしたら「ヨハンナ(Johanna)」のような名前の方のハンカチかもしれません。一つの可能性のみに思いこみだけでいきなり飛びつく怖さというのは、こういう他の可能性を総無視してしまうことになるので、最終的に正解にたどり着けなくなってしまうことです。
だからこそ、文化財保存修復の調査においては作品から(あるいは作品の損傷から)読みとれること(事実のみ)をとりあえずフラットに並べてみる。それぞれの事実に対し「なぜ」と尋ね、その質問と得られた回答を並べてみて、複数の事象が全く同じ方向を指したときに、我々は作品への理解の「たった1歩」を進むことができる。
正しい1歩は、誤った何マイルよりは非常に貴重で重要なものになります。
文化財保存修復の業界以外でも、例えば民俗学や考古学、海洋学など、長い年月の間研究がなされているわりに「結論」というのがなかなかでないなぁという学問っていっぱいあると思うんですよ。それは、「正しい一歩」に至るまでに研究する事象が多いってことなんだと推察します。「正しい一歩」ってそれほど貴重で、貴重だからこそそうやすやすとは見つけにくいものなんですよね。
ですので文化財の業界のおいても、調査の規模に関わらず「この作品はこういう作品」って報告するにおいて、たった一つの事象ではいかなる場合でも適正な結論に至れないことや、あらゆる視点での観察・考察が必要なことに繋がるわけです。
もっといいますと、「この作品の損傷は人為的なものである」という因果関係を説明するということは、一つの「証明」なんですよね。ミステリ小説でも、(一般的に)探偵は「事件の結果(盗難、殺人などの事件)」と犯人およびその犯行理由の因果関係を「証明」しているわけです。ここで重要なキーワードは「証明」です。
で、ここで「証明」という言葉を考えると、中学時代の数学などでやった「証明」が思い浮かぶと思います。この数学の授業の中では、「見ればわかるだろ!」と思うような「正三角形であることを証明せよ」とか、「二等辺三角形であることを証明せよ」とか、やりましたよね(苦笑)。
理屈としてはあれと同じで、「これは●●である」と正式に報告書でいう場合、ある種の「証明」が必要で。「正三角形」の場合は、三辺が同じ長さ、3つの角が同じ角度と条件が合えばそうであることを我々は学習していて。逆をいうと、条件1つのみが成立していても、「正三角形」であるという証明にはなりません。「これは●●である」といいたいときには、それが成立するだけの条件をもってくる、少なくとも条件1個だけで断言はやめよう、ということが結構大事だったりします。数学を学ぶ理由というのは、こういう「考え方」「論理性」を学ぶためだったりするんですね。
ああ、あと、特にベルギーの大学に在学中によくよく先生に言われたことに「作品を見なさい」という言葉があります。「正解も、真実も、作品の中にしかないのだから」と。
これに対しアガサ・クリスティ―のミステリ小説の中にもこういう印象のセリフがあります。「被害者を理解しないと、犯行を理解しえない」といった言葉です。言ってしまえば探偵にせよ警察にしろ「ホシを挙げればいい話」なんですが、そのためには「被害者への理解が大事」っていうのが「ああ」と思う部分でありまして。
もともとアガサ・クリスティ―を読み始めたころなんかは全然文化財保存修復に関して知識も何もない時代でして、そのころは一つの読み物として単純に楽しんでいたのですが、こういう専門に興味を持ち始めた後に再読するとすごくこの専門と共感できる部分が多く、違う角度から楽しめます(笑)。
文化財保存修復関係の人間が、どういう心境といいますかどういう考えに基づいて調査をしているのかなぁということを追体験(?)する上で、ポアロシリーズはすごくいいなぁと思ったりします。あくまでも個人的な見解ですので、業界一同の考えとか、そういうのではないことはご注意くださいませ(^^;)。
というわけで本日はここまで。最後までお読みくださり、ありがとうございます。
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