この記事は、タイトルに関するシリーズ2話目となります。導入である1話目が前提の話ですので、まだ1話目を読まれていない方は、先にそちらを読まれてからこちらを読んでいただけると大変助かります。ややこしくてすいません(滝汗)。
話を進めるためのそもそも論として、「オリジナル」ってどういうこと?ということを考える必要があります。
デジタル大辞泉によると「①原型。原本。原図。原画。複写・複製・ダビングされたものに対していう。 ②文芸作品・楽曲などの原作や原曲。脚色・翻案・翻訳されたり、編曲されたりしたものに対していう」とあります。
一般論的に文化財・芸術作品に関して言えば、「オリジナル」とは、上記デジタル大辞泉を参照すると「原画。原本」を指すことになります。
わかりやすく言いますと、物理的に「ある画家Aが制作した人物画そのものを、物理的に画家Aのオリジナルの人物画とする」ということです。この「画家Aの人物画」を誰かが模写しても、それは「コピー」であり、写真に撮っても、3Dコピーによる完璧な模作であっても「オリジナル」にとって変わることはできないわけです。
具体的な例で考えてみますと、非常に精巧な「ダ・ヴィンチのモナ・リザ」の3Dコピーを制作して、日本の美術館などが「うちにもモナ・リザがありますよ!」と言い出すと、嘘となるわけです。あるいは単純に人の心情として「どんなに精巧でもコピーはコピーだよね。オリジナルが見て見たいなぁ」となると推察されます。
あるいは、モナ・リザの精巧な3Dコピーを制作し、その上でなんらかの理由でオリジナルのモナ・リザが失われることになっても、3Dコピーがオリジナルには取って代わることはできない、ということです。
そういう物理的な本物、これが「オリジナル」、というのはおそらく誰しもうなずいてくれるはずです。
ここで、でもちょっと考えてみるべきは、どうして「コピー」ではダメなのか、ということです。3Dで精巧にできていても、「なぜ」それを人は尊ばないのでしょうか?もっとどぎつい言い方をすれば、世の中にはいっぱい画集も、ネット上に画像なんかもある上で、なぜ美術館にいって、コロナ前なんかは行列ついて、ものすごい人ごみの中、「本物」を見に行くのでしょう?写真で十分ではないですか?多額のお金をかけて作品を修復せずとも、沢山写真や模写やコピーをつくればいいだけの話では?これで納得できないのはなぜなのでしょう?
こういうことには回答があるわけではないですし、保存修復を学べば普通に「オリジナル」、それは大事なもの!みたいな脊髄反射的なものになってしまうのですが、だからこそ自分の脳みそで考えて、自分の言葉で言語化してみるということはものすごく大事だと思うのです。
本日は非常に短いですし、お話ししたいことをお伝えするのにあまりにも短すぎ!といいますか、伝えたいことが伝わらない状態にあるのですが、ここまで。
次を読むまで、この記事を読まれた方が自分の言葉で考えてみてほしく思います。
それは私の書くことを信じすぎないでほしいから、とかもあるんですよね。勿論「オリジナルは大事」ということは保存修復界で常識ではあるのだけど、なんていうのだろう、同じ概念、同じ視覚、同じ言語などなどなどを使っていても、人の思考、嗜好、思想、宗教、好き嫌いなどなどなどは決して同一にはならないからです。同じ時代に同じ学問を学び、同じ知識と概念を持っていても、それに対してどう考え、どう認識するかは100人修復家がいれば、100の考えがあると思っているので(完全一致はないと思っているので)。
だからこそ特に海外の大学では「自分で考える。その自分の考えを、それと相反する人にも伝えらえる努力」を求められるけれど、多数決が正しいというわけではなく、迎合することが大事とは言われない。
自分が何かを認識したときに、何をどう考え、それはどうしてかを、考えが違う人とも分かり合えたら幸せじゃないですか。
そんな感じに、次の記事まで少し考えていただけたら素敵だなと思います。というわけで本日はここまで。ここまで読んで下さりありがとうございます。ではではまた~。
す。
コメント