ここしばらく卒論関係のお話をしております。
今回の記事は大学生が卒論のテーマを決めるとき、あるいは卒業研究中もしくは卒論執筆中におおよその学生がいう言葉、「僕(私)の研究って、何の役に立つんでしょう」問題です(笑)。
これ、修士とか博士だと話は違いますが、少なくとも大学生の場合、卒論で「役立つ!」ってものが書ける場合のほうが稀です。なぜなら日本の場合おおよそ大学で初めて「論文」を書きます。小論文ではなく、文字数3万文字程度以上の論文を、です。
勿論大学や学部の考え方は異なるので日本の大学の100%が、大学生の卒論をブログ主が思うとおりに取り扱っているかというと絶対ではありませんが、卒論に「何かの役に立つ」という付加価値って求めていないはずです。
それなのに、卒論発表会の要旨および発表などで「当研究が一助となるよう」みたいなことがあると、おそらく発表を聞く教員は残念な印象を受けるかなぁ。
なににせよ、当記事のタイトルに「役立つ」必要はないと書いている理由を以下に書きます。
世の中、「役立つ」ものだけで成り立っているわけではない
こういう研究および研究結果をまとめることのすごいやつが、ノーベル物理学賞とかノーベル化学賞だと思うのですが、おそらくこれらの受賞者は、「ノーベル賞がほしい」という欲求ではやっていないのだと思います。「必要があった」「興味があった」が先なはずで、ノーベル賞はその後のたまたまの結果ということね。
ノーベル賞をとられた大隅氏が「役に立つ、という言葉が社会をダメにしている」と述べていることがすごく感慨深くて。結局のところ、ノーベル賞がたまたまの結果のように、「役立つ」ってことも、一生懸命研究してみたら、たまたま後々何かの役に立ったみたいなものなんじゃないかと思ったりするのね。
言いたいこととしては、「スタート」ではなく「結果」なのではないか、ということ。
なんというのか、本当に「役立つ」研究とか発明って、そんな目先のことではないといいますか、「役立たせよう」としてできたものではないというか。研究結果としてでてきたときには想像もしていなかった付加価値が、遅れてくる感じがするんですよ。
特に現代の場合だと、ある研究が世界に直接的に大きな進歩を!みたいなそういうものは稀で、機械のパーツのようにそれだけでは「役立たない」とか、研究していた当時は「役に立たなかった」けど、後に他の業界の研究に利用できたとか、研究からえられるものって研究者さんが思うよりも「思いがけないもの」だったりするんだと思うんですよ。
勿論企業さんとかの「利益を出さなくてはならない」研究は違いますよ。「利益」とか「発展」が前提の研究も勿論あります。
でも意外と「利益」のための研究で、出てきた副産物がそもそもの主要研究の内容よりも現在利用されているとか、そういうのありますからね。だからこそ、「役立つ」っていう視点だけにとらわれてしまうと、その副産物を見落としてしまうように、もっと俯瞰して「研究」ってものを考えるべきなんじゃないだろうかとか、もっと「面白がる」気持ちが大切なのではないのかなって思うのですよ。
大学の卒論で必要最低限評価対象として求められるものは何?
とはいえ、卒論のテーマ選択において、「何にも役立たないテーマ」って何のためにやるんだよう!とお困りかもしれまないですね。でも、ほんとに、卒論に求めるものは「役立つ」ではないです。学生さんの興味のあることをしてほしい。
これは少なくともブログ主が教員をやっていた頃の、学科内での卒論で学ぶべきことではあるのですが(多少うろ覚えなところもありますが)、おそらく他の大学であろうとも、一般的に特に文系の場合はこうではないか、というものを記載しておきます。
①論文の構造を理解する
②論理的な説明の仕方(専門外である他者に複雑な何かを伝える方法)を理解する
③研究のための段どりおよび論文執筆のための段どりを学ぶ
④セルフマネージメント
⑤多角的なものの見方、深く思考する経験をする
⑥信頼できるデータの獲得のための努力をする(文献調査および本人による実験など)
⑦必要に応じて「相談」「質問」「報告」「協力依頼」など、他者とのコミュニケーションに努める(人の話が聞ける、アドバイスを適正利用できる、自分の考えを述べることができるなど) ※逆に人に「依存」することや、人任せであること、他者の協力を「当然」とし「感謝がないこと」などは不適切事項です
以上、だいたいこういったことです。「え、これだけ(半笑)?」と思いますか?
でも実際のところ、これらがきちんとできる学生のほうが少数派です。
なぜ上記のようなことが卒論において求められるかというと、「論文」というのは、学生本人が自分でテーマ設定して、自分で冒険に行って、その冒険記を書く、みたいなものだからです。これまでの授業は、先生などからひたすら与えられるだけで済んでいたものが、学生が「主体的」に動く(計画する、実行する、調整する、考察する、表現する、など)ことで実現できる学びだからです。
一人旅にいく場合、自分の能力や持ち時間、お金を考慮して、「興味のある場所」に行くための「計画」を立てる必要があります。外国語がしゃべれなければ、日本国内限定かもしれませんし、ブロークン英語を引っ提げていろんな国を回るのかもしれません。資金は貧乏旅行かもしれませんし、お金持ちの親御さんが旅費から自家用飛行機まで用意してくれるかもしれません。使える時間もひとそれぞれ。だからこそ、ツアーではない一人旅は、同じ場所に旅行にいくにせよ、その人の個性のでる「世界にひとつだけの」旅行になるはずです。卒論で求めるものも同じです。
学生個々の能力も違えば、持ちうる資金も使える時間も全然違います。それを一人一人教員が管理するわけではなく、自分の能力やらなんやらを理解して、どういう規模の研究ならできるのかとか、どうスケジュールを組むかなど、自分でマネージメントするという経験をしてくれ、というのが卒業研究および卒論です。
教員自身が卒論の経験者なわけですので、初めての一人旅が必ずうまくいく!とも思っていないですし、残念な結果(研究がうまくいかなかったとか)の旅になることも前提です。だからこそ、「役に立つ」を前提に旅に出ろとは思ってはいません。
そうではなく。特に最近の学生さんの場合、「一人で旅にでるのが怖い(卒業研究・卒論が怖い)」ということで、一歩もふみだせない学生さんが少なくないのです。きちんとした計画(段取りですね)があると怖くないのですが、それもできない。「できない」ことに対して担当教員に相談もできない。こういう「できない」が積み重なって、いたずらに時間だけが過ぎ、とんでもないことになる学生さん、少なくないです。
だからこそ、「役立つことをしろ」は絶対、おそらくどの大学の卒論でも求めていないことを理解してほしい。自分に実現可能な「旅」を考えて、実行する。それだけが求められているんだ!と思えば、テーマ選定はもう少し肩の力の落とせるものになるのではないでしょうか。
結局のところ「役立つ」も「他者評価」であって、「自分の興味」とか「わかりたい」といった自分の欲求とは違うので、研究へのやる気とか楽しさを上げてくれるものじゃないと考えると、そういう付加価値はあって問題があるわけじゃないけど、必ずしもなくていいと思うんですよね(^^;)。
本日のまとめのようなもの
とはいえね、理系の学科に関してはもしかしたら「役立つ」が前提かもなので上記は絶対な話ではないのですが。
学科内とかの発表とか、あるいは成績判定の基準として教員から「で、この研究って何の役にたつの?」って言われないですし、議論のテーブルに載らないですからね。気にする必要のないところを気にする必要はないわーと思います(担当教員が「役に立つテーマじゃないとダメ」と言わない限りはね)。
というわけで本日はここまで。最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
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