油絵の発展⑧:基底材の板から布への変遷:当時のヴェネツィア

修復を学ぶ

最初の記事より油絵の発展のお話を書いております。また2つ目の記事には油絵と写本との関わりについて書きました。さらに3つ目の記事においては美術史における油絵と「国際ゴシック」との関わりを見てみました。加えて4つ目の記事では15世紀における2つの絵画上の勢力、フランドルとイタリアにおける相違、それに対して5つ目の記事では比較として東欧のイコンに関しての概要、そして6つ目記事にてイコンの構造を簡易的にお話しました。

上記を踏まえ直近の記事では基底材の板から布への変遷に関する簡単な簡単なお話をしています。

というわけで本日は基底材が木材から布へと移行する話の続きを書いてまいります。

なお当ブログにて繰り返し書いておりますが、もし学生さんが読んでいたとしても、こういうブログはレポートや論文の参照文献にはなり得ないことは重々ご理解いただいて読んで下さい(ぺこり)。

ヴェネツィアの特色

先の記事にて、時代としては板が絵画の基底材である中で、特にヴェネツィア派が先駆けて布を基底材として使用し始めたと書きました。

そこでヴェネツィアにスポットを当てて考えたいのですが、その前に、中世世界の交易路あるいは道として、海路や川の重要性を知っておくとよいでしょう。

例えば、できれば中世の商業都市地区を示している地図をみていただくといいのですが、現代の地図でも構いません。よく知るヨーロッパの都市が大きな河川あるいは海に沿っていることに気づくはずです。

例えばむかしむかし、南ヨーロッパのイタリアでは、かつては4大海運都市としてヴェネツィアを含め、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァが栄えていました(当時はまだ「イタリア」という国ではなかった頃ですね)。あるいは「ハンザ同盟」で有名なドイツの場合はライン川沿いにはケルンやマインツ、ドナウ川上流にはニュルンベルクやミュンヘン、フランスにおいてはセーヌ川沿いのパリやルーアン、ローヌ川あたりのリヨンなど、そういった地域で商業が栄え、人口も急速に増加し、都市として発展していくのです。

現代のように道が舗装されているわけではない、山越えを場合によっては要するような陸路より、水路は「重量のあるもの」「体積のあるもの」「沢山のもの」などを運ぶ上で有利だったのです(これは現代でも同じです。いくら現代において飛行機などがあるとはいえ、車などのような「大きく、重量のあるもの」などは船で運んでいることでしょう)。

ちなみに「水路の重要性」はヨーロッパの特権ではなく、日本でも同じです。日本地図を見て頂けるとよいですが、一般的には海あるいは川に近い場所に大きな都市部は存在します。日本の場合商業都市として栄えた地域というのは、例えば北前船(海路によって商品を運んでいた)などの海路の恩恵のあったエリアなどが挙げられます。社会科というのは「地理」と「歴史」に分裂されたりしますが、両方を同じに見てみることって大事だったりします。

さて、閑話休題。イタリアの4大海運都市の中でも、最後まで繁栄し続けたのはヴェネツィアではありましたが、中世の地中海では二度にわたって船舶に関する重要な技術革新が達成されました。ひとつめに羅針盤(コンパス)の実用化によって、海図が作成され、冬期や曇天でも航海ができるようになったこと。これは13世紀末のことです。さらに北ヨーロッパで発達した、コグやコッカと呼ばれる丸型帆船(ラウンドシップ)が地中海に導入されました。  

このコグ船の特徴を一部に取り入れたのが大型ガレー船です。ガレー船はオールを動力とすることで自由な操船を可能としますが、その一方で、人件費や食費などのコストがかさむ船でした。これを改良した大型ガレー商船は、従来の軽ガレーの幅と深さとを拡大して、積載量を飛躍的に増大させる反面、2枚か3枚の三角帆を取り付けて、帆を主な動力とし、オールを補助動力としました。元来船による移動では、防衛要員と漕ぎ手を要しますが、動力を帆に任せられる分防衛力が高く、自由な操船が可能になったといわれています。この大型ガレー商船が最も発達したのがヴェネツィアでした。

同時に海上交易で発展する港湾都市として、ヴェネツィアは造船のために大量の木材を必要としました。例えば15世紀初頭において、一隻のガレー船を建造するためには、(船の骨組みに合うように曲げて育てた)骨組み用の湾曲した樫材の梁が380本、まっすぐな樫材の梁が150本、樫材の板が270本、外装用としてカラマツ材の長い梁が35本、甲板用に唐松か松の梁が18本に樅(もみ)材の板が300枚必要とされました。

1423年の元首モチェニーゴの演説によれば、国営造船所で働く人々は一万六千人にのぼり、これだけの人員動員がなされるほど造船がなされているとともに、木材の確保は大問題でした。 

中世の木材は、船や建物、家具などの建材のためだけでなく、燃料でもあったのはどこの国でも同じです。生活において不可欠でした。さらにヴェネツィアの場合、海の波からなる浸食から都市を守り、航路を示すために、多くの木材や塀や杭を要するなど、木材は生活必需品でした。   

一見絵画となんら関係ない話をしてはいますが、ヴェネツィアという都市が他の都市と異なる特徴を持つことは現代の私たちの知る通り。水の都を言われ、ガレー船ではないにせよ、結局生活の足は小舟であろうとも、「舟」であって、人間の足でもなければ馬でもない。

そんなに都市にとり、他の都市以上に木材が必需品であったことや、発達した造船技術があったことは、絵画にも関わるのではないかとか考えられます。

というのも、ヴェネツィアは都市生活でも船が必要な水の都であることから、塩分や湿気が多く、元来壁画には不利な土地でした。

なぜなら、湿気も塩分も、フレスコを始め絵画作品一般を壊す重要要因だからです。よって壁という建物から独立した絵を描く欲求が他のエリアより強かった。

この欲求を解決したいが板は先ほど言ったとおり日常で重要な物品ででした。そしてその代用の素材として、「大型で丈夫な布」が身近に存在していた。

また、ヴェネツィアという都市が水の都市であることから、木材を基底材をした作品の保存性が他の都市より適正ではなかったのかもしれません。保存修復家においては常識のようなものですが、板は非常に湿度に敏感であることから、ほんのちょっと湿度が変動しても板に描かれた絵画作品というのは損傷しやすいためです。

ヴェネツィア派は船の帆に使って居た布を、絵画の基底材に使用し始めます。実際ヴェネツィアの港町で船の帆として用いられていた布の特徴は、荒い麻糸を斜文に綾織りしたヘリンボン(杉綾、矢筈模様)といった特徴的なものでしたが、ヴェネツィア派の画布に見られる特徴は、まさにその船の帆の織り目と同じだったのです。ちなみに麻の使用はイタリアでよくみられたとされますが、18世紀にはその姿を消します(なお、麻と亜麻は異なるものです)。

本日のまとめ的なもの

先の記事にも書きましたとおり、ブログ主はベルギーで留学しているので、フランドル絵画関係の歴史は多少やっているのですが、イタリア絵画(あるいはその周辺史)については疎くて、一応自力で色々文献を調べての記事ですが、もし色々知っている方がいたら、そして間違っているなどのことがありましたらお教えいただきたいものです。

とはいえ時代が昔であるほどに、大体は地産地消といいますか、自分の身近にあるものを使って文化的生活を送ってると考えられます。

我々もそうですね。一般的には輸入したもののほうが「輸送代」や「人件費」など「中間の支払い」が出てくるので土地のもののほうが質が高くてもお安く購入できることがあります(現代においてはある種のものは輸入品のほうがお安いということもありますが…)。

ですので、身近なものでいいものがあったり、代用品(ジェネリック的ではありますが)がありますと、現代でもそうですけど一般的にはそういうものを使う傾向があるかも…と思うといいのかなと思います。

あとは都市毎の習慣や考え方というのがありますよね。それらは急にふって沸いてきたものではなくて、長年の、先祖代々からの考え方に沿っていることが、昔であるほど多いと考えられます。例えば日本人が「湯水のように使う」というような言い回しを、おそらく砂漠の民がしないみたいに、「何が大事」だったり「何が高価」だったり、あるいは「どういう素材が(この地域では)丈夫(あるいは脆い)」というのは都市や時代などで異なるのではないかと推察します。

そういう意味合いで、歴史を知ったり土地を知るというのはきっと作品を知る上で大事なのではと思うんですよね。

そう考えると、ブログ主はイタリアにはいったことがあるのですが、ヴェネツィアは未踏で。その土地をいろんな本を読んで想像するしかなくてそれが残念ではあります。

というわけで本日はここまで。最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

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