卒論のテーマ探しは、1年生段階から始まっている?

修復を学ぶ

ここしばらく卒論関係のお話を記事にしております。

本日の記事タイトルは、もし大学3,4年生あたりが見ると卒倒しそうですね(^^;)。あの、手遅れという話ではなくて、「もともとその学科が最終的に卒論を卒業案件としているならば、低学年のうちにしておくとよいよ」と事項のお話をしたく思っています。

場合によっては別に1,2年生段階ではなく、3年生段階でゼミに入るならその時点からでもいいです。これをやっておけば絶対役立つ、という話ではありませんが、やっとくと役立つ可能性もある程度に読んでいただけたらと思います。

自分が学科の専門関係で「何に興味があるのか」を理解することが大事

卒論関係の最初の記事にて、卒論のテーマがなかなか見つからないのは、「①勉強不足」「②興味不足」「③プライドの高さ」だと書きました。①②はわかりやすいでしょうが、③に関しては「他者評価を気にしすぎて、自分の興味などに軸がないこと」を指しています。

さらに言えば、正直卒論のテーマを探す段において十分勉強してある(①の項目ですね)を満たしている学生のほうが稀ではありますので、まぁ、これは置いておいたとしても、「私は〇〇に興味がある」という大まかな自己理解というのは必要だと思います(②の案件ですね)。

なぜなら、「自分が何に興味があるんだろう」ってことを学生さん自身が分からないのに、担当教員が「じゃあ、こういうのどう?」というサポートもし難いからです。

例えばファミレスに行ったら、最終的に何かを注文してそれを摂取してお金を払うというのがやるべきことですが、そもそもに「何を食べるか」を決めてくれないと、お店の方もサーヴできないですよね。お店の人に「決めてください」って言わないですよね(^^;)。「迷っちゃう」っていうのはあっても、せめて「がっつり食べたい」のか、「軽く食べたい」のか、「デザートが食べたい」のか、「肉がいい」のか「魚がいいのか」、ドリンクバーだけでいいのか、せめてそれくらい理解してお店にいきますよね。

卒論も同じでね、広大なテーマの海の中で、「私、これがやりたい」「これに興味がある」「これがずっと疑問だった」って方向性は大事だと思うのね。

反面、この項目で「①勉強不足」はどうしようもないとは書いたものの、「疑問」やら「興味」っていうのは「知識ゼロ」からは生まれないので、だからこそ、いきなり「卒論のために勉強しろ」ではなくて、普段専門関係の授業を受けるときにこういうことをやっておくと「興味」「疑問」という方向性においては助けになるかもということです。

普段の学科の専門関係の授業で是非してみてほしいこと

卒論につながるような「興味」「疑問」のためにやることは、別段特別なことではありません。

ブログ主は中学生だか高校生の頃に、「授業のノートの使い方」というのを教えられたのですが、その教えられたままのことをお伝えするだけです。

いわゆる「ノートをとる」ということ、みなさんどうやっていますか?近年板書している先生は大学でいないと思いますし、パワーポイントとかの場合、先生が資料を渡していると思いますので、なかなか「ノートをとる」ということをしていないかもしれないですね。なので、以下はあくまでも参照に、自分なりに工夫してみてって感じではあります(^^;)。

ブログ主が学生のころは、ノート(ルーズリーフ)をどう使っていたかといいますと、1ページの真ん中に縦に線を引いて、区切って使っていました。すなわち1ページの左側を板書や教員の口頭の説明(授業で教えられた事実)を書く場所として、右側に自分の「つっこみ」という風に。

「つっこみ」というと正しくはないのですが、板書された部分の自分なりの解釈とか、「授業の内容のこれめっちゃおもしろいやん」とか、「これあとで調べよう」とか(で、実際授業後に調べたことをメモしておく)、「授業後にこれ先生に質問しよう」とか、授業を聞いているときに色々思うことを全部書いておくのね。だって、授業が終わったら忘れるから。勿論、面白い、楽しい、好きは覚えているのですが、「は?」と思ったことは意外と忘れるので。

「え、こんなん授業中大変じゃない?」と思いますかね。進みの早い授業だと大変です(笑)。ブログ主は早く書くことはできますが、同時に悪筆ですのであとあとノートを見ても「??」と思う状態になりますので、当日のうちに授業のことを思い出しながらノートを作りなおしもしました(自分が自分のノートを読み返せるのなら、ここまではしなくてもいいですよ。苦笑)。

ただ、授業中に「何に興味があるのか」「何に疑問をもったのか」「何が自分の中ではっきりしないのか」「先生の言ったこと、変じゃない?」とか、リアルタイムで思ったことって結構大事だと思っていまして。その疑問を直接卒論には使えなくても、そういうノートを見ると「ああ、自分はこういうことが好きなのか」とか「忘れていたけど、こういうことに疑問をもっていたんだな」ってわざわざ考えなくてもわかるじゃないですか。

改まってテーマを考えようとするから面倒だったり、「わからない」になっちゃうになるのかなーと思うのね。

ちょっと疑ってみよう

数年ではありますが、大学で教えていて最近の学生さんに対して抱いていた印象としては、よくも悪くも「素直」だな、ということ。

実際それを実感することが最近ありまして。ブログ主、ここ数カ月リハビリをしているのですが、そこの療養士さん(お若い)が雑談としてこういう話をしてくれました。

「肩こりというのは、首が長い人がかかるもので、だからこそ相撲取りは肩こり、しないそうですよ」と。

それに対して「相撲取りは脂肪と筋肉で首が見えにくい状態だけど、実は首が平均より長いという方いないんですかね?もしそういう方だとしても肩こりしないんですかね?」とブログ主が質問してみたら、療養士さんがしどろもどろになってしまって(^^;)。

「僕、授業でそう習ったもので。でも、言われてみたらそうですね。どうなんだろう…」という返しだったんです(苦笑)。こういわれるまで疑問を持たれなかったそうなのです。

勿論、もともと首の長い相撲取りという個体自体が、「相撲取り」という集団の中ではごく少数派で、語るに足りない状態だからこその話ということも前提としてあるのですが、「疑いを持たない素直さ」があると、「疑問」を持てなくなるのかなとも思った出来事でした(おそらくこの療養士さんも、話を上記の話題を教員から聞いたときに「えっ?」とか「本当?」とは思ったでしょうが、すぐに「そうなんだー」という感心に流されてしまうのかなと思った次第)。

あるいは、「なんでなんで?」って思うことを、子供っぽいとか、ばかだと思われてしまうと恐れて「疑問」を封印してしまうのでしょうか。

よく学生さんがする間違った思いこみの一つとして、「先生に質問するという行為は、授業がわかっていない証拠だから、ばかにされるし、恥ずかしい行い」というのがあります。

逆です。

「質問」というのは、授業の内容が理解できないと出ないものです。なぜなら、「理解していないからこそ、自分が理解しているのか否か、何がわからないのかすら判然としていない状態だから、質問がでない」からです。質問や疑問というのは、ゼロから出るのではなく、実のところ理解すればするほど出てくるという、わけが分からないものです。

勿論、授業の内容を余さず理解できているから「疑い」や「疑問」を抱かない、ということもあるでしょう。しかしその上で「良質な質問」が出る人は、多分受け身で授業を聞いているのではなく、その人らしい考え方や見方をしながら授業を聞くという、ちょっと能動的な状態にいるんじゃないかな、と思います。

授業後の、リラックスしている時の会話も大事

ここまでの話で、「やってみてほしいって言われても、実際実行は難しいよー」という場合、ちょっとやってみてほしいのは、授業後に仲の良い同級生と授業の内容に関する会話をしてみてほしい、ということです。

はやり病のコロちゃん全盛期(?)のころは難しかったでしょうが(授業がzoomとかでの実施でしたので…)、今は移動教室の間などに少し時間がありますよね。

人と共通の話題の話をすると、話ながら「あれ、自分はこういうことに興味があったのか」とか「こういうことわかってなかったのか」とか、そういうことに気づくととがあったり、あるいは「自分だけが分かっていないわけじゃなかったんだ」と思ったりといった、アウトプットすることで気づく何かというのがあります(先の療養士さんの例なんかもそうです)。

同じものを見て聞いていながら、実は同じことを考えているわけではない、ということに気づきます。そういう事実から自分自身への気づきや理解に至ることもできると思うのです。

そういう狙いで、ブログ主が教員をしていたころは、学校の許可が得られる限りは学科関係の授業でもzoomではなく通学してもらいました。学生同士が業後に話しあう時間が必要だと、学生にも告げた上で、です。

独学ではなくて、「学校」で学ぶ意味って、こういう人と人との間でこそ生まれる発展性のためもあると思っているんです。だからこそ、学生同士で授業に関する「わっかんなーい!」って嘆きでもなんても話してみるといいと思うんですよね(^^;)。

本日のまとめ

大学という場所って「賢い人が来る場所」と言われる場所だけど、研究においては「子供のような気持ち」も大事だと思うのね。なんでかというと、「自分は賢いんだ」って思うと、「賢い自分がわからないことなんて!(ばかだと思われたくない!)」って鎧を着ちゃうので、「わからない」とか「疑問」が見つけられなくなっちゃうのね。そういうのが実際そこにあるのに、見ようとしない。

でも、子供は「あれなにー!」「なんでなんでー?」ってひっきりなしにそうじゃないですか(笑)。恥とかなんとか思わないでしょう?

それを口にしろとは思わないけれど、授業を受けるノート上では、ノートを見るのは(ノートを人に貸さない限りは)自分だけなので、素直になってもいいのでは?と思うんですよね(なお、ブログ主のノートは同じ専攻だけじゃなく、学科内で回ったので、面白がられた経験があります。笑)。

せめて自分が授業をうけながら「こういうことが好き」とか「こういうこと興味ある」って、方向性だけでも理解できるといいなぁと思います。こういう理解は就活でも役に立ちますので。

というわけで本日はここまで。最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

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