絵画の保存修復:よくある誤解2

修復を学ぶ

「絵画の保存修復:よくある誤解」「絵画の保存修復:求められるのは適正な判断力」にて、絵画の保存修復のお仕事は「お絵描きをするお仕事」でもなければ「お絵描きができる人」がなるべき仕事とも違うとお話しました。

本日はそれとは別に、保存修復学科に入りたい高校生の間によくある「誤解」みたいなものとして、「保存修復の専門家」と「学芸員」は違うよ、というお話を。

「保存修復学科卒」を武器に、「学芸員」になりたいは、叶うのか

私が大学で教員をしていた際の、高校生のご相談などで「学芸員になりたいので、保存修復を学びたい」という意気込みをよく伺いました。

これを伺う度に、うまく伝わるかわかりませんが、「寿司屋になりたいので、マグロ漁船でマグロ漁をする男になりたい!」のようなことを言っているように聞こえました。

わかりますかね。

近しい関係性ですし、全く関係がないとはいいませんが、違う仕事だよ、という感じ…。

「自分でマグロが釣れたら、確かに自分の寿司屋で出すマグロの利益分だけ出るかもしれないけど…、寿司屋になるなら、マグロはほかの漁師に任せたほうが効率よくない…?」って感じ、伝わるでしょうか。

多分、学芸員の募集の際に、「私は修復もできる人材です!」を付加価値として応募できるからという気持ちなんだろうなぁとはお気持ちを汲み取るのですが、残念ながらたかが学部、あるいは修士を出たくらいでは、「自分の判断で」修復を実施するのは困難であると考えますし、実際保存修復科出身で学芸員関係の就活をしていた子でも、履歴書に「私は絵画作品が修復できる!」と喧伝した学生はいません。

卒業までの4年間、あるいは修了までの6年間で、「できない」と自分で悟るからです。

あるいは、募集している美術館さんにおいても、経歴(学歴)を見て、「この程度では、とてもこの人だけで修復は無理では…」と判断すると思います。

保存修復のお仕事って現代においては、学校なり、国内外の工房などで研修するなりして平均的に8~10年ほど学んだり、実績・経験を積まないとなかなか自立できないお仕事かなと思っています(自立というのは、自分で判断できる・安全に適正な処置ができる、という意味合いです)。

でも、一般的にどんなお仕事でもプロ言われる人になるにはこういう時間を要しますので、特別なことではありません。医学部だって、6年の学びに2年の研修期間を経ても、「一人前」とはならないでしょう。

また、実際の「学芸員」さんのお仕事の優先順位で考えると、「美術史」「芸術学」に強いほうが、就職には強いのではないかなぁと推察するのです。あくまでも今まで「学芸員」さんの求人を見てと、私の周囲で「学芸員」さんをやっている知人の出身学部を思い出してではありますが。

なぜならですけど、「絵画の修復」などはお金はかかるものの外注すればいいことですけど、自分の勤める館の作品の美術史を知らずに「展示」「教育」「保存」なんて、できないためです。特に「展示」「教育」という表立った部分において、ゼロから学びなおす時間を考えると、最低限「この時代を学んできました」という方のほうが、即戦力になりうるため雇いたいというのが美術館の気持ちではないでしょうか。

受け身の学びは、成長が遅い:「与えられたことをやるだけ」という考えはやめよう

上記に加えて言いますと、保存修復のお仕事というのは、机上の空論ではないので、実際に作品の処置に携わらなければなりません。

それも1つ2つ、触ったから修復家になれるってものではないんですね。

たかが「油絵」じゃないですかと言われそうですが、制作年代や国、経歴、時代背景、経年度合、保存環境、画家自体の好みなどによって、されど「油絵」で、全然使用している技法材料が異なるので、十把一絡げに取り扱うことは不可能だからです。特に近現代作品は、時代背景から作者の個人的趣味に至るまでに立脚して、作品の構成が複雑かつ、各々の作品独特の脆弱さを持つ傾向があるため、処置が難しいのです(勿論古典作品の難しさは別にありますが、ポテンシャルとしての壊れやすさは近現代の特徴ですので)。

もっと端的にいいますと、「学校に行ったから、自動的に、エスカレーターのように修復家になれる」というわけではありません。

ブログ主自身の実経験とはなりますが、自分の背中に「作品という責任」が乗った時に、「本当にその責任の重さ」を思いながら「いかに作品を安全に処置できるか」と「必死に学んだ経験」の積み重ねが、はじめてその人に「成長」を与えてくれるものだと考えています。この「必死に学んだ経験」というのは授業を指すのではなく、「授業を基盤」に自らさらなる深淵に入る、という意味です。授業を受けて覚えるだけでは「必死に学んだ」とは言い難いのです。

日本の大学の場合、カリキュラム上、学部段階で学生に作品の修復を一通り任せるということはないだろうと考えるため(学生主体ではなく、教員主体に学生がつく、ということはあっても)、どうしても「私に責任がある」という認識が乏しくなり(これはどうしようもないことです)、成長が遅めになるという傾向がある気がします。

そういう意味で「学校に入ったから、自動的に修復家になれる」とは考えないほうがよいと考えているわけです。学校のカリキュラム上、それだけで「修復家」になれるわけではありませんし、ましてや大学院を出たくらいでは、「私にまかせろ!」というような自信もつきませんから。

だからこそ、言い難いですけれども「修復もできる学芸員」というのは、よほど「保存修復」関係で経験を実践として積んでいる方以外は、実際は大分難しいかなと個人的には思います。

「修復もできる学芸員」は本当に無理なのか

見出しに対する回答に対し、最初に答えておくと、「なることはできる」だと思います。

ただし、本人が授業に関する習得(「優『A』」とか最低でも「良『B』」程度)を当たり前にした上で、自ら進んで学ぶ覚悟があってこそだと考えます。

なぜなら日本の学部の授業というのは、ものすごく熱意のある学生にとっても、全然やる気のない学生にとっても、とりあえず「最低限理解ができて、単位がとれるであろう必要最低限」を教えているのであって、「本来学ぶべき最大限」を教えているからではないからです。言い方を変えれば、できるだけ「取りこぼし(単位が取れない、留年、退学)」が発生しないように設計しているため、「最低限の学びで卒業できる」状態だからです。

海外の場合は違いますよ。「本来学ぶべき最大限」を学生が理解できなければ進級できませんので、留年するか退学するかの話で。だから海外の大学は卒業が難しいのですが。中には、ブログ主が留学中に受けた授業で、いくつかの試験は受けた学生の半数が「再試」というものがありました(もちろんブログ主も再試を受けましたが。笑)。

さらに言えば、ブログ主は幸いにも「再試」で合格する傾向にありましたが、現地の学生が「再々試」「再々々試」を受けているのを見て、「できない子へのハードルを下げよう」が一切ない、妥協のない大学の在り方に、日本の大学を知る身としては驚きは結構ありました。反面、妥協のない姿勢だからこそ、その試験に受かるということで「ちゃんと自信を積み上げる」ということはできた気はしています。

閑話休題。ただ、なんていうんでしょ。

どこの大学でも、どこの学科でも同じかと思うのですけど、「どこどこ大学でました」とか「どこ学科出身です」が重要なのではなくて、「そこで何に興味をもち、それにどうアプローチして、結果どうなった」ってところが重要なのではないかなと思っています。

それは成功論に限らず、「こういう失敗したけど」って話でもよくて。

だって「失敗した」ってことは、その人にとっての「初めてを恐れずにチャレンジした」という、頑張った証でもあるから。

なんといいますか、今の若い方というのは、賢いのね。

賢い分だけ繊細だったりもして、失敗したくないとか、自分を守りたい気持ちが強い。

「できない自分」を認めたくないという方も多いですし、「できない自分」を過剰に恥ずかしいと思いがちだったり。

だから失敗もしたくないし、要領よくやりたい。お友達の前で恥をかきたくない。

だから、大学や学科も「自分が何をやりたい」ではなく「こうしたら要領よくうまくいく」を考えたりするのかなとは推察するのですけど、そこで自分の「何が好き、何をやりたい」をないがしろにしてしまうと、「要領」が「要領」になり得なくなっちゃう気がしちゃうのです…。

経験的な意見であって、ソースだせと言われると困ってしまいますが。

そういう意味で「修復学科をでた学芸員」になりたいという話を聞くたびに、大学教員時代のブログ主は、「言いたいことはわかるのだけど、やりたいこと、学びたいことはないのね」と受け取っていましたし、実際学生自身、就活などを前にして自身の気持ちを深堀した場合に「自分のやりたいことなんて、ないのではないか」と考える気がしてならないのです。

それに対して、「●●に興味があるからこれを頑張るために修復学科を出て、結果●●関係の美術館の学芸員になりました」は違うように思います。

例えば「寺社仏閣のような、宮大工が建てる建築」というのを「●●」に入れて、上記および下記の文章を読んでみてください。

「●●に興味があるからこそ、●●を自分で作るとか、歴史学みたいな形ではなく、保存の学科で「●●を守る」を主体に勉強したくて。でも結局のところ、●●を守る方法というのは、公務員の◇◇に入る必要があるみたいで、だから、修復を学んだあとは公務員になって●●を守りたい」

こういうのは、わかる気がしませんか?やる気も感じますよね?学校の授業だけじゃなく、「●●」に関して勉強した結果、「●●」を専門とする美術館博物館の学芸員募集においてアピールできる状態になると思いませんか?

あるいは、「絵画を制作するほどの技術はないけど、絵画が好きで。特に××という画家が好きで好きで、将来的にあの画家さんの作品に携わったり、自信をもって手入れできるような自分になりたいから修復家、あるいはその画家さんが展覧会をされる際に自信をもって携われる学芸員になりたい」

とかなら、話はわかりますし、目的のために頑張れるのではないかと思います。もちろん、「××」という興味のある画家、その同時代の画家、「××」という画家が影響を受けた画家、「××」による影響、時代背景…こういったことを授業外で当然学ぶ必要性はありますが。

全体的に言いたいことはご理解いただけるでしょうか。

「修復学科で学んで学芸員になりたい」だと、学校にお任せで、ただエスカレーターに乗っていれば「夢の職業になれるだろう」というのと、「個人的に大きな興味」があって、それに向かって興味をもって自ら学ぶことがさらにプラスされている状態では、同じ授業を受けていても、きっと得られている「何か」の大きさも異なるよ、ということが言いたいのです。

学芸員さんも修復家も、コンビニや美容院みたいにわんさか数のいる職業じゃないじゃないですか。少なくとも学芸員さんは「枠」が決まっています。それが「学校で勉強したから」でなれるなら、「就活」は「何で差別化」するのでしょうか?「だから『保存修復科』に入って」というのでは、「あなた」が見えないのです。

「あなたは『何を』したいのでしょうか?」

また「学芸員」と「修復家」は全く異なる職業であるという理解がない上で、それをその職業の人に当然のように言えてしまうということの違和感、ある種の失礼を感じられないというのも、結局のところ「職業に関する勉強不足」と捉えられてしまいます(学芸員さんからも修復家さんからも、いい目では見られないです)。「この職業のこと、イメージだけで見ていて、勉強していないな~」と思われてしまうの、ご理解いただけるでしょうか。

「寿司職人になるために、マグロ漁ができる人になる」という文章に苦笑いができるなら、「学芸員になるために修復家になる」の違和感を感じていただけたらと、願いつつおります(^^;)。

あくまでも、過去に大学で教員をしていて、受験する学生、実際入学した学生をして感じたことにすぎないですが。

長くなりましたが本日はここまで。最後までお読みくださり、ありがとうございます。

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