なぜ油絵の下地には「体質顔料」を「色を担当する粉末」の主体にできない?:「屈折率の理解のために」-見ることと、「光」と「屈折」-

修復を学ぶ

現在、絵画(主に油彩画・テンペラ画)の構造についてお話しておりますが、特に「下地層(地塗り層)」のお話を詳細にご説明させて頂いています。

前回までは、主に「水性地」「油性地」「エマルジョン地」と3種類ある下地の中でも、なぜ「水性地」は「体質顔料」と「膠」、「油性地」は「白色顔料」と「乾性油(あるいは加工乾性油)」という組み合わせなのか、ということで、まず「体質顔料」というのはなんだろうというお話をいたしました。

そもそもに「見る」ってどういうこと?

絵具にしろ、下地にしろ、おおよそ「粉体」と「接着要素」からなりますが、同じ粉体なのに、「接着要素(結合剤)」が水性か油性かで独立した顔料として使えたり使えなかったりといった性質は結構重要でして、それを左右するのが、顔料(および体質顔料)と結合剤(接着的要素)における屈折率だったりします。

さて、ここからは「屈折率」のお話の前に、そもそも我々人間が一般的に物を視認するってどういうこと?ということについて触れるべきかと思います。日常我々はものを見ているのですが(当ブログも「視覚」でお楽しみいただいていると思いますが)、「見る」ってどういうことでしょうか?

高校の物理だったかな、とかでも言われているように、「見る」ためには「見るべき物体」と「光」、そして「目」が必要となります(厳密にはさらに「脳」も加わります。「目」は感覚器官ですが、それだけでは人間は「認識」はできないので、「脳」があってこその視覚です。いわばデスクトップタイプのPCのハードとディスプレーと考えるとご理解いただきやすいかと。どっちかが壊れていたら、役に立たないですよね)。

違う言い方をすると、この「物体」「光」「目」の中のいずれか、あるいは全てがないと、人間はものを見ることができません。一つずつ、何かを失った状態で「物を見ることができるかどうか」を想像していただけると、おそらく「当たり前だな」と思っていただけるかと思います。

さて、なぜこのようなお話をしているかといいますと、この視覚にとって重要な要素の一つである「光」の在り方が「屈折率」に関わりがあるからです。また、「光が目に届く」ということあるいは「光が目に届かない」ということが「視覚的に認識する」という上で重要だからです。

光と物体、そして目の関係性

「光が目に届く」ということあるいは「光が目に届かない」ということが「視覚的に認識する」という上で重要って、なんやねん!と思われるかも…?

いやいや、お気持ちわかります。これも回を追って、いろんなお話をしていくことでご理解につなげられればと、希望的観測をしておりますが(汗)。

大まかにいいますと、「視覚的に認識」する場合、「物体」「光」「目」がかかわるといいましたが、単純にこの世から光がなくなるとどうなるか。当然ながら暗闇です。現代において、なかなか夜でも真っ暗というのは経験し難いですが、おそらく人の住まない山の中や、人の住まない離島・孤島の場合、自分の手も見えない暗闇というのを経験できるのかもしれません。

では逆に光があると何が起こるかといいますと、光が物体に当たり、その物体の固有の色以外の色は物体に吸収され、固有の色のみが物体から反射されます。そしてその物体から反射された光が目に入ったとき(そして脳に認識されたとき)に、初めて「視認する」ということが成り立ちます。

白色の場合は全ての光が反射され、赤いリンゴの場合は赤以外の光線はリンゴの吸収される(実際はそんなに単純なものではないとは思いますが)、黄色のバナナも黄色の光のみを発している。…では黒は?

黒は全ての光を吸収するので、反射はしません(とはいえ、精密にはそうではないとも思いますが)。

光のあるなしが「視覚」に関わりがあるのはそうですが、光があっても「目に届く、届かない」も重要です。そもそもに物体が光を反射せず、その物体から光が全くない場合、「目はどう認識」するかといいますと、「光がない=暗い・黒い」と認識するわけです。

図の中ではりんごの絵を出していますが、実際の生活の中では、目の前にリンゴしかないという世界は存在しませんよね(笑)。大概は床があって、壁があって、あるいは少なくとも地面などがある。そういう我々の目の範囲に入ってくる物体全てが太陽や電灯などからの光を浴び、そして固有の色の光を反射して、それが我々の目に全て飛び込んできて、認識ができている、ということになります。

こう考えると目や脳の有能さとか、処理能力の高さにびっくりします。

また、実生活で経験がおありかとおもいますが、単純に光と物体と目があれば万々歳ではなく、光の種類や光の強さなども物を見る上で重要ですよね。

大人の方や、あるいは入試などでホテルを使ったことがある方だと顕著かと思いますが、「さあ、ホテルで勉強(仕事の資料作り)をしようかな」と思うと、ホテルの電気って妙に暗いんですよね(笑)。なので、同じ本や資料を読んでいても読みにくい(最近はPCで資料作りをするので、ホテルの明るさも気にならないですが。苦笑)。

何がいいたいかといいますと、目に届く「光の量」「どんな光?」なんかも「視認」する際に関係あるよってことです。

「光」と「屈折」

「屈折率」のお話のために、なんでこんな話をしているんだと思われると推察しております。

そもそもに言語として「屈折率」の「屈折」ってどういうことやねんとも思われると思います(ブログ主自身は理系関係への理解が疎いせいか、当初そう思っていました。苦笑)。

「屈折」をデジタル大辞泉で調べると、最初に出てくるのは「折れ曲がること」とあります。次に出てくるのは「ものの考え方やその表現などが素直ではなく、わかりにくいところがあること」とあります。いわゆるツンデレみたいなことでしょうか(違う)。

そして最後に「光や音などの波動がある媒質から他の媒質に進むとき、その境界面で進行方向を変えること」とでてきました。われらが「屈折率」で必要な理解はこれです。

小学校の理科で習っただろう「光」の性質は何だったか。光はそれ自体は曲がったり折れ曲がったりせず、直進するもの、でした、それでも方向転換するということへの理解のために「鏡を使った反射」という実験をおそらく小学校でしていると思います。光は鏡で方向転換させることができる。また、これはもっと高等なお勉強での学びかもしれませんが、光が鏡に当たるときの角度と出ていくときの角度は同じである、ということ。

これがわれらが絵画の保存修復に関わるんだ、というお話を少々したいのですが、すでに結構長く書いておりますので、次回に回そうかと思います。

なかなか「屈折率」などに結び付かずにイラつかれることもあろうかと心配しつつおりますが、最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

参照文献:MASSCHEELEIN-KLEINER Liliane, “Liants, Vernis et Adhésifs Anciens”, Institut Royal du Patrimoine Artistique, 1992, Bruxelles

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