徒然雑文

雑記

連休ですね。

本日は日々徒然の雑談まで。

つい先日偶々SNSにて、「自分の人生の波乱万丈は一冊の本になると思う方は手を挙げて」というものがあり、それに対してコメントを残している方は「誰しも言わないだけで、一冊の本になるだけの波乱万丈を経験している。ただそれを顔に出したり、言わないだけ」との趣旨のご意見を残すばかりでした。

私もそう思います。おそらくSNSにて前者の文章を書いた方は、お若いのでしょう。辛いこと、苦しいことは自分だけ、あるいは限られた人だけだと思っているのかもしれないですね。

勿論時々「この方は生まれてからこの世を去るまで、ずっと幸せなのだろう」と思われるような方もいます。実際そうかもしれませんが、そうじゃないかもしれない。

また世の中というのは理不尽なもので、「幸せそうな人なら壊してもいい」と思う人間がいつの時代にも一定数います。思うだけなら自由ですが、実際に陥れる人がいます。足を引っ張る人、引っ張られる人の一例というのは、こういう場合もあると思っています。

そういう世界の中で、「ずっと幸せな人」というの存在しないのではと思うと同時に、いたとしても砂浜の砂のほんの一握りといったところなのかもしれません。

私は自分の学びや仕事などで日本だけでなくあちこちに居を移していることや、仕事上の移動、個人的に一人旅が好きなこと、旅までいかずとも一人で出歩く性質であることから、一つの土地に留まらず色々な場所や世代、生活環境の方の話を聞くことがありました。

私が集団ではなく「一人」であること、性別が女性であることで気が緩むのか、個人的な深い話をぽろっとこぼされることがあり、一見幸せそうな家庭でも必ずのように深い悩みがあることを見てきました。

仏教だったかなんだったかのとおり、「生きることは苦」なのでしょう。天国だかなんだでは「苦しみ」がないことから、その「苦しみ」を求めて生まれてくるとすら言われていますから。

その中で、苦しみだけを眺め続けず、幸せな部分を見つけられる人、幸せな部分だけを見つめられる人が「幸せな人」なのかもしれません。持っていようと、持たざる者であろうとも。

そもそもに「幸せ」自体、人によって(国、時代、性別、年齢などなどによって)全然違うので…。なんていうのかしら。私自身、「幸せ」というのはなにかしらの特別なことだと思っていたのですが、自分一人で生きていると、「何もない平穏」がかけがえのない、代えがたい幸せだと思うのです。若い方にとっては退屈なことかもしれませんが。「普通」「平穏」というのは意外と難しいものです。私の場合、私一人分の生活を支えている状態ですが、これが家族持ちだったらと時々思います。もし子供時代に、生活上の不安を感じずに生きてこれたなら、それは当たり前のものではなかったのだと、今の私は思います。

ところで、ここ数年の私の苦しみの一つは「若いころにはあったものが、ぽろぽろと手の平から落ちていく」ことだったりします。その当時は顧みなかった、気づかなかったほどに「持っていて当たりまえ」で、かつ大事なものが「無くなってから」あるいは「無くなるかも」と気づいてからはじめてその存在に気づく、というような具合です。愚かですよね。

例えば、健康、体力がそう。若いころは当たり前で、それが失われるなんて腑に落ちるほどに理解していなかった。そしてそれらが失われると、急激にぐっと失われるのが時間。「時は金なり」とは言うけれど、本当に時間ほど取り戻せないものはない。

勿論、こういったブログでは書けない個人的にぽろぽろと失ったものは沢山あります。それも、もとは「あったもの」で、自分が当たり前だとぞんざいにしてきたものであると、今になって気づくのです。「当たり前」など存在しないのに。

そしてこうも思います。今現在の嘆きの内容も、10年後、20年後に自分がまだ生きている場合「あのころは〇〇を持っていたのに、どうしてあんなに嘆いていたのだろう」ときっと思うのだろう、と。そして「嘆いている暇があったら【今の自分】を必死で生きたほうがいいのに」ときっと思うのだと推察するのです。私が私自身の考え方や行動を考えるに、きっと。

「幸せに見える人」は諦めるのがうまいのかもしれない。諦めるというとマイナスな印象があると思いますが、それは悔いや恨み、執着、愚痴を引きずるからです。仏教的な「諦め」というのは「道理を明らかにする」ということ繋がるのだそうです。すなわち、「なぜうまくいかなかったのだろうという【道理(世の本質)】を理解して、それを断念する」というのが諦めるということなのらしい(私は宗教家でもなんでもない素人なので、素人理解ではありますが)。物事を「我」で見るのではなく、第三者的な視点であったり、俯瞰的な視点で見るということです。「理解」があると物事が違うように見えますし、同じ問題にも違うアプローチができる場合もある。あるいはその執着したものに対し、執着する気持ちがあっさりとなくなることもある。

私は、自分のためにも自分の周囲のためにも「後悔しない人生」「人のせいにしない人生」というのを目標に掲げています。勿論目標であって、ここ数年は過去の自分の愚かさに関し懊悩することも少なくありません。

でも、それは過去の自分のより今の自分のほうが「経験」を積み、知ったことが多いから「できる」ことであって、当時の自分にとってできることの最大限をしてきた、とも思うのです。あほうだった自分だけど、それでもその当時一所懸命だった自分。そういう自分を、馬鹿だなぁとは思うけれども自分なりに頑張ったんだもんねぇとも思います。

そして未来の私は、きっと色々後悔するのだと思います。後悔しないように頑張ってきたけれど、それでもどうあがいても後悔するのだと思います。今の自分が決して後悔ゼロではないのと同じに。

それでも最後の最後の瞬間に、「自分、あほうばかりだったけど、一生懸命頑張ったね」と言えるようにはしたいなと思う昨今です。

そして、そうやって生きているのは私だけでなく、世の中の皆様がきっとそうやってあがいて生きている。苦しい顔も悲しい顔も見せずに、一生懸命生きている。そう思うと、ちょっと運命共同体みたいで、力み過ぎる身体のこわばりも緩むような気がするのです。

とりとめもない、何が言いたいのかといった雑文をここまで読んで下さりありがとうございます。

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